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【日本海海戦】
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やるだけ無駄、やっても返り討ち
もう一つこの戦法の難度を上げているのが、海の上であるということです。
お互いに移動を続けるのは陸戦でも海戦でも同じですが、海の場合これに風向きや波の高さが加わります。
陸上なんかより、はるかに複雑な動きが必要となります。
そんな状況で、敵に真横を向けつつ正確に移動する……なんて芸当をキメるのはほとんど不可能に近いといわれていました。
ヘタをすれば敵艦に激突されて自艦が沈む”だけ”という笑えないオチになります。
ですので、この戦法はほぼ理想論であって実用性はほぼ皆無、やるだけ無駄、やっても返り討ちに遭うだろうというのが常識でした。
実際、このときの戦いで、日本海軍がそんな動きを始めたとき、バルチック艦隊は
「日本軍はヤケクソになってるんだなwww 俺らの勝利www」
と信じて疑わなかったそうです。
そのくらい成功率が低いと思われていたんですね。
しかし、このときの日本海軍はそれを見事やってのけました。
完全に作戦通りの動きとは行かなかったものの、攻撃自体は大成功。
わずか30分ほどでバルチック艦隊の戦力を大幅に削ぎ、散り散りになった船に対して各個追撃や挟撃(ただし偶然)で対処したのです。
さらには日没後も夜襲をかけ、世界最強と謳われた艦隊を見事に打ち破ったのでした。
勝ち取ったのは「世界の日本」
日露戦争で、日本は一応の勝利を得ます。
しかし、その際に結ばれたポーツマス条約(1905年9月)は、当時の国民が手放しで喜べるような内容ではありませんでした。
ロシアは戦争継続が苦しい。
ただ、日本も苦しい――。
そんな状況の下で
・賠償金はナシ
・南樺太を日本への割譲
という条件に決まったのです。
ほか中国での権益などもありましたが、費用ばかりかかって得るものが十分ではなかったんですね。
実際、そうした国民の不満はスグさま行動に移され、日比谷焼打事件(1905年9月)が勃発しております。
日露戦争に勝利してポーツマス条約~なのになぜ日比谷焼打事件は勃発したのか
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ただし、幕末の開国から50年程度でロシアに一応勝ったことで、世界の見方が変わりました。
【アジア人の初勝利】というわけで、後の各国独立運動の気運へと繋がるのです。
とはいえ……こうした状況から、日本国内においては【アジアに対する指導的立場に立ったという意識】が広まり、その後の軍事拡大路線へ繋がったとも指摘されています。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
別冊宝島編集部『日本の軍人100人 男たちの決断』(→amazon)
日本海海戦/wikipedia