渋沢兼子(伊藤兼子)

渋沢栄一や孫たちと渋沢兼子(右端)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

渋沢兼子は妾として渋沢栄一に選ばれ後妻となった?斡旋業者の複雑な事情

2024/07/10

渋沢栄一は明治15年(1882年)、糟糠の妻である千代を失いました。

コレラによる急死であり、呆然とするばかりの渋沢。

それでも、こんなことが言われている明治時代です。

男やもめに蛆が湧き、女やもめに花が咲く――。

不惑を過ぎたばかりの資産家に、後妻がいないとは考えられず、明治16年(1883年)には、さっそく縁談が持ち上がります。

さらにその2年後の明治18年(1885年)末。

渋沢栄一は、妊娠中の渋沢兼子(伊藤兼子)と正式に再婚をしたのでした。

※なお、渋沢家の跡継ぎは千代の孫にあたる渋沢敬三となります

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兼子といつ再婚した?

大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれた、この再婚。

配役は大島優子さんでしたが、本稿では史実を追ってみましょう。

渋沢の女性関係は、現代人からは考えられないような乱れ方です。

なんて言うと「そういう時代だから」といった答えが必ず出てきますが、渋沢や、その仲間・伊藤博文に関しては、当時からやり過ぎだと批判されていたものです。

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こうした状況を踏まえ、渋沢栄一と伊藤兼子が結ばれるまでを整理してみますと。

ざっとこんな感じです。

明治15年(1882年)千代死去

明治16年(1883年)この年「再婚していた」という回想もある。少なくとも栄一の近辺に兼子の姿はあったと推察。兼子との間に三男・無相真幻大童子が生まれるも夭折

明治17年(1884年)四男・敬三郎誕生、翌年に夭折

明治18年(1885年)年末に兼子が妊娠した状態で、正式に再婚

明治19年(1886年)五男・武之助誕生

正式な結婚には諸説ありますが、千代の死からほどなくして再婚し、かつ子が生まれていたことは確かでしょう。

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では、兼子と栄一はどのように知り合い、結婚したのか。

 


兼子の実家は豪商だったが

江戸時代から明治へ――。

こう書くと、日本の未来が開かれた夜明けのようなイメージが湧いてきます。

しかし、明治時代になることで苦しんだ人々も少なくありません。

幕臣や奥羽越列藩同盟の武士の女性は没落し、芸妓になることすらありました。

幕末の四賢候に数えられる松平春嶽の娘(絲子)までそうだったのですから、大変なものです。

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渋沢の後妻となる渋沢兼子は、こうした武士の娘ではなく、伊藤八兵衛の娘でした。

伊勢八という屋号の油屋で、水戸藩の信頼も篤い豪商。

元治元年(1864年)に天狗党が挙兵すると、小判五万両を出すよう命じられ、三万両を出したとされます。

維新前夜も、五万両献金したとされますが、異説もあります。

耕雲斎の孫・金次郎が「一万両を出せ、さもなくば命を奪うぞ!」と脅したところ拒絶し、牢屋に入れられたというのです。家族が一万両で見受けすると「この首は一万両の値打ちか」とうそぶいたとか。

なぜこうも話が違うのか?

どこに焦点を置くかで事情が変わってきます。

天狗党や新政府にドンと献金したとなれば、維新の功労者として名を残す。いわば維新を支持する側に知名度が上がる。

一方で「天狗党相手に屈しなかった」となれば、水戸や関東で「すごい度胸だ!」となる。

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いずれにせよ名声を高めるための話でしょう。

確かなことは、

・水戸藩と繋がりがあり

・万両単位のお金を動かせたこと

でしょうか。

明治時代に豪商として伝記が流通したからには、傑物ではあったのです。

 

いくらなんでも妾はない!

しかし、そんな伊藤八兵衛も、時代の趨勢で躓きました。

明治時代はシステムが大きく変わり、ついていけないとなるとスグに失脚します。

武士が商人になって失敗した話はあちこちにありますが、餅は餅屋のはずの商人ですらそうだったのです。

関西の場合は、銀本位制の廃止が大きな要因となりました。

水戸となれば事情は異なります。

伊藤八兵衛の場合は、明治初期に横浜居留区のアメリカ商人と取引をし、赤字を出したことが契機となり、あっという間に没落してしまったのです。

明治時代はシステムが不安定、かつ救済の仕組みはありません。

8人いた伊藤八兵衛の嫡子のうち、兼子は五女でした。婿養子もおりましたが、家の没落で離縁したとされます。

こうなったとき、明治の女にできる選択肢は多くありません。

遊郭には、家族を救うため身を沈めた女性がおりましたし、前述の通り松平春嶽の娘・絲子ですら芸者になったほど。

兼子もまた

「私は芸が好きだから、芸妓になる。この身を金に変えます」

そう言い切って、口入れ屋に紹介されました。

口入れ屋とは、職業斡旋業者のことです。そこで

「芸妓にはなれないけれど、お妾の話ならばある」

と言われるのでした。

妾だなんて、いくらなんでもそれはない!

そう拒んだ兼子ですが、何らかの動機で承諾。渋沢家に入ったのですが、その理由についてはいくつか考えられたりしています。

それに則って、ちょっと推理してみましょう。

兼子は栄一に対してどんな思いを抱いていたか?

1 純粋に同情した(コレラで妻を亡くして気の毒だと思った)

2 金目当て。あるいは好みだったとか?

よく語られるこの手のストーリーは、いかにも陳腐で、他に何かないのか?と思ってしまいませんか。

当初、兼子は妾の予定だったはず。

それが正妻とは何があったのか?

むろん、栄一が兼子を気に入ったのでしょうが、後妻を迎えるには渋沢家内での反対もありました。

千代を慕う娘の歌子がよい顔をしない。

数年前から同居していて、面識のある妾・くにのほうが再婚相手にふさわしいという意見があったのです。

そこで当時、話題になった理由がコチラです。

実は栄一は、八兵衛のもとで丁稚奉公していたのではないか?

渋沢栄一が選んだほどの女性であるからには、何か劇的な話があるのだろう。

明治の人はそう考え、兼子については様々な話が「盛られた」形跡があります。

しかし史実はあくまで、口入れ屋という斡旋業者が介入した縁であり、現代人が思うほどロマンチックなものではない可能性のほうが高いでしょう。

 


明治のシンデレラは幸せだった?

没落豪商の娘から、華麗なる渋沢栄一夫人、華族へ――。

それはまさにシンデレラストーリーのようではありますが、兼子は果たしてその生活に満足できたのか?

明治というのは大変な時代です。

女性がまだまだ物を言える時代ではなく、没落すれば衣食住すら危うい。

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その点からすれば幸せとも言えますが、人生とはそう単純なことでもないでしょう。

栄一に付き添いながら、兼子は夫の女癖に悩まされました。

そして、ここが渋沢栄一という人物の厄介な二面性なのですが、彼は大変に外面がよろしく、自己プロデュース力に長けています。

新聞が、渋沢栄一の妾についてスクープしたところ、世間ではこんな反応もありました。

「伊藤博文とか、桂太郎てえならわかるぜ。しかしまさか、あの渋沢栄一が!」

政府高官、特に長州閥の女癖の悪さは周知の事実ですが、渋沢栄一はそうでもない。

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皮肉にも栄一の潔癖であったパブリックイメージが露わになりますが、妻・兼子からすればトンデモナイ話。

人徳者として『論語』を説き、むしろ「孔子様でも遊びが好きと思える箇所はある」と言い逃れをするような夫に言いたいことはあります。

兼子はしみじみと語りました。

「あの人も『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」

キリスト教圏では、嫡子相続が原則でした。

庶子は不名誉の証。カトリック教国のフランスではその抜け道があり、国王や貴族は愛人を持つことが当然でしたが、日本で明治以降急速に広まったのはプロテスタントでした。

イギリスやアメリカといった国との関係も影響していると思われます。

『八重の桜』で描かれた新島襄と八重の夫妻を思い出してください。

夫の言いなりにならないという理由で八重を妻とし、容姿ではなく生き方が「ハンサム」(気丈で堂々としている)だと評した夫。

そんな夫を、周囲の目を気にせず「ジョー」を平然と呼んだ八重。

むろん、襄に妾はありません。

敬虔なプロテスタントである襄は考えただけでゾッとしたことでしょう。

かたやそんな夫妻も出てきたのに、私達は一体何なのか?

兼子がそう疑念を抱いたとしても何もできない時代、それが明治でした。

 

現代女性は兼子より選べる道が多い

何事も近代的な渋沢栄一ですが、女性の見方は古風でした。

ここで少し『論語』の擁護でもさせていただきますと……。

西洋から「一夫多妻制はありえないのではないか」と言われた東洋の人々は、文化の違いであり野蛮だと言われる筋合いはないと抗弁したものです。

ただし『論語』はじめ儒教にそうした戒めがないかと問われれば、そうとも言い切れません。

「酒色は控えるべきだ」という観念は東洋の儒教国家にもあります。

玄宗と楊貴妃はじめ、女性に耽溺した君主は問題があるとみなされました。

栄一は若い頃、志士であったこと。それに彼が「明眸皓歯」(めいぼうこうし・明るい瞳に白い歯で美人のこと)に目がないと語っていたことも考えましょう。

夫は女好きを隠そうとしない。

何人もの明治の女性はそうため息をついていました。兼子もその一人です。世間は騙されようとも、妻はそうじゃない。

ゴシックの瀟洒な洋館に暮らし、ドレスを着て華やかな暮らしを送る兼子。

そんな明治のシンデレラは、その時代ならではの哀愁も秘めた存在でした。

『青天を衝け』で兼子がにっこりと微笑もうとも、史実との差異については無視しないほうが良いでしょう。

現代の女性は、兼子より選べる道は多い。受け入れる必要はないのです。


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【参考文献】
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon
土屋喬雄『渋沢栄一』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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