下田歌子

下田歌子/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

提灯袴にブーツも考案した下田歌子~昭憲皇太后に信頼された教育者とは?

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女性に勉学を教えるための「桃夭女塾」を開く

数年後、歌子は結婚のため女官を辞することになります。

しかし、運悪く三年後に夫が病気になってしまい、苦しい家計を支えるため、歌子は看病をしながら「桃夭とうよう女塾」という私塾を開きました。

文字通り、女性のために勉学を教える塾です。

明治政府は、実力で仕官できた代わりに、急に上がった身分に対し、教養が見合っていない人もままいました。

そうした人の妻は、元芸者など、学問と縁遠かった人もいたため、彼女たちのために古典や和歌を教えたのです。

江戸時代までならともかく、西洋のマナーでは公的な場に妻を同伴するのが当たり前でしたから、女性の教養もより高いレベルが必要になりました。

そういう世間の状況を見越して、歌子は自らの才覚を活かしたのです。

これが功を奏し、歌子は自らの道を切り開いていくことになります。

看病の甲斐なく、結婚から五年後に夫が亡くなったとき、昭憲皇太后からお声掛けがありました。

「あなたは女性に学問を教えていたそうだから、今度作る華族女学校の先生をやってくださらないかしら」

文字通り、華族の女性たちのための学校。歌子の古典・和歌・儒学の知識が遺憾なく発揮される場所でした。

「女学校の生徒」というと「提灯袴にブーツ」が連想されますが、あれも歌子の発案だそうです。

なんでも学校のほうで「これからは洋装で通うように」と言いつけても定着しなかったため、もう少し和装に近く、生徒に受け入れやすいものを、ということで考えだされたのだとか。

袴ブーツ

 


「欧米の女子教育を視察してほしい」と宮中からの依頼

他にも、華族女学校ではいち早く体育の授業も取り入れられ、先進的な教育も実施。

新聞には「珍妙」と書かれたようで、いつの時代もマスコミのケチの付け方は変わりませんね。

ともかく真面目に華族の子女教育を務めていた歌子に、39歳のとき宮中から思わぬ仕事が舞い込みます。

「(明治天皇の娘である)昌子内親王や房子内親王が、将来欧米の賓客と対等にやり取りできるように、欧米の高貴な女性がどのような教育を受けているのか、視察してきてほしい」

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かくして半年ほどの準備の後、歌子はイギリスへ旅立ったのです。

現地で三ヶ月間英語を習い、12月にロンドンへ。

ヴィクトリア女王一家の生活や教育、市井の人々との距離を間近に見た歌子は、大きなカルチャーショックを受けました。

彼女がスゴイのは、ただ単純に「高貴な人々も、もっと人前に出なくてはならない」とは考えず、「こうした自立した女性になるには、教育と生活習慣が重要だ」と感じ取ったことでしょう。

次第に歌子は、お上から任された皇女教育だけでなく、一般女性の教育へも興味を広げていくようになったのです。

 


日本が一流国になるためには一般女性の教育が重要

イギリスの女学校やケンブリッジ大学の女子寮、女子教員養成校を見学した後、フランス・ドイツ・イタリアでも同様に女子学校を訪問。

その中でヴィクトリア女王とも謁見し、女性君主というものを初めて目にします。

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とはいえ、悪い意味で「西洋かぶれ」になることはなく、ヴィクトリア女王の御前には、伝統的な女官の服装である袿(うちぎ)に袴で行ったそうです。十二単っぽいものを想像していただければ良いかと。

あれだけかさばるものをイギリスまでよく持っていけたものですね。ロストバゲッジにならなくてよかったよかった。

こうして二年ほどのヨーロッパ滞在で、歌子は女子教育の方向性を定めました。

自主自立・慈善・博愛、そして科学の中で実生活に役立つことも教えるべき。

そう考えた歌子は、帰国後に「帝国婦人協会」を設立し、「日本が一流の国になるためには、皇族や華族だけでなく一般女性の教育が重要」として、そのために動きました。

当時は、まだまだ男性主権が強かった時代のこと。

歌子の主張を歓迎する人がいる一方で、「何だあの女、ケシカラン!!」とケチをつけてくる心の狭い人もいました。

このとき既に東京女学校(お茶の水女子大学附属中学・高校の前身)などは開かれておりましたが、未だ女性の教育には否定的な人が多かったのです。

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華族女学校でも、在学中に結婚が決まって中退する人のほうが好ましく見られており、いつまでも学校に通っている女性は「行き遅れ」と見られがちだったのでした。

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