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【下田歌子】
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学習院から身を引かざるをえない状況に……
明治三十九年(1906年)。
歌子がかつて勤めていた華族女学校が学習院に統合され、乃木希典が院長に就任すると、学内でも女子の教育方針を巡って対立が起きます。
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乃木が女子教育についてどのように考えていたのかはっきりしません。
が、軍人気質ですから「家の外のことやお国のことは男がやるのだから、女子は家のことに集中し、子供を産み育てるのが一番」というように考えていたでしょう。
もちろん、歌子も女子の教育を主張して譲りません。
そんな中で突如、歌子のスキャンダルが大々的に報じられます。
内容はテンプレかつ品がないので省略しますが、そのせいで歌子は学習院から身を引かざるをえなくなってしまうのです。
ちなみに、同時期に市井では「結婚媒介所」という商売が現れています。現在の結婚相談所のようなものですね。
当時の結婚というと、ほとんど親が決めた相手に嫁ぐというものでしたが、「少しでも自分が気に入る人と結婚したい」という女性に人気があったとか。
華族の女性も珍しくなく、中には学習院の生徒もいたそうです。
歌子の影響がどれほどかはわかりませんが、時代は着実に「女性が自らの生き方を選ぶ」ほうに向かっていたというわけですね。
板垣夫人の呼びかけで順心女学校の初代校長
それから10年ほど経ち、歌子に新たな仕事が持ちかけられました。
同じく女子教育に携わっていた板垣絹子(板垣退助夫人)に誘われ、順心女学校(現・広尾学園)の初代校長に就任したのです。
そして昭和十一年(1936年)に亡くなるまでの18年間、彼女は女子教育を広めることに専念。
若かりし頃に作った桃夭女塾も「実践女子学園」と名を変えて今に続いています。
また、故郷の岐阜県恵那市にも歌子の功績を称えるものがいくつかありまして。
平成十五年(2003年)から、彼女を称えて「下田歌子賞」というエッセイ・短歌の賞が始まりました。
岩村城城跡公園には、歌子の勉学所を再現したものや、銅像があるそうです。
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女子に限らず「勉強する意味がわからない」「社会に出ても役に立たないことばかりやらされる」と感じる人も多いようですが、歌子は寂しく感じているかもしれません。
まぁ、頭ごなしに「やれ!」「覚えろ!」しか言う先生ばかり……という状況だったら、致し方ないことではありますけども。
面白く教えるのも教師の役目――とは言いたいところでありますが、中にはモンスターペアレントや雑務に追われてゆとりのない先生もおられるのかもしれません。にっちもさっちも行きませんね……。
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長月 七紀・記
【参考】
黒岩比佐子『明治のお嬢さま (角川選書)』(→amazon)
国史大辞典
下田歌子/wikipedia
きもの物語(→link)