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【東京奠都】
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行ったきり戻らないと今度は京都がヤバい
一行が東京へ到着したのは10月13日のことです。
当時まだ16歳だった明治天皇が「江戸城は大きいなあ」と少年らしい感想をもらしたのは有名な話かもしれません。
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しかし、行ったきり全く帰らないのでは、京都の人々の動揺は計り知れません。
反対に、京都へいきなり帰ってしまっても東京の人々に疑念が生まれてしまいます。
そこで先代・孝明天皇の三年祭(神道でいう三回忌のようなもの・ただし亡くなった翌年から数えるため、仏教とは一年ずれる)と、皇后を正式に決めるために戻るのだと言い置くことになりました。
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実際にこの二つは行われています。
その後も明治天皇と昭憲皇太后は、東西両京の人心を落ち着かせるため、度々、行き来をしました。
正式に東京へ留まることになったのは、通称「明治宮殿」と呼ばれる戦前の皇居が出来てからのことです。
ついでですので、明治天皇から現代に至るまでの天皇の住まいについてまとめておきましょう。
・1868~1873年 江戸城西の丸御殿
・1873~1888年 旧紀州藩江戸藩邸=青山御所=赤坂御用地
・1888~1945年 明治宮殿
・1945年5月25日 空襲により明治宮殿焼失
→御文庫(皇族用の防空壕を兼ねた建物)を仮の御所、宮内庁庁舎三階を仮の宮殿に
・1968年 新宮殿落成(現在の皇居)
だいたいこんな感じです。
戦後しばらく宮殿が造られなかったのは、昭和天皇が「国民が難儀しているときに、新しく宮殿を建てることはできない」とおっしゃっていたからだそうで。
昭和天皇の戦後というと全国巡幸をされたことが有名ですが、あれはいわゆる仮住まい中のことだったんですね。
寝殿造に近い構造だった明治宮殿
また、明治宮殿にもちょっとしたエピソードがいくつかあります。
明治天皇は代々続いていた「形」というものを非常に大切にする方だったので、明治宮殿はいわゆる寝殿造に近い構造になっていました。
しかし、これが嵐や冬の寒さに対して無防備、かつ洋装化で薄着になったことにより、秋冬は難儀することも多かったようです。
特に昭憲皇太后や女官たちは十二単から洋装になっていますから、冬の寒さは辛かったとか。そりゃそうですよね。
ちなみに夏の暑さについては、明治天皇いわく「熱いものを食べて汗をかいたほうが良い」ということで熱いものを食べたり、スイカを食べたりしてしのいでいたそうで。
皇室や皇居というと我々庶民にとっては雲の上のような存在ですが、中身はやはり人間なんだなあということがうかがえますね。
引越し一つするだけで何十・何百万もの人心に気を使わなくてはならない分、損な役回りかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
米窪明美『明治宮殿のさんざめき (文春文庫)』(→amazon)
東京奠都/Wikipedia
明治神宮崇敬会(→link)
明治宮殿/Wikipedia