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【金栗四三】
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荒天の予選で世界記録を樹立した
明治44年(1911年)11月19日、予選当日。
その日はあいにく小雨まじりの悪天候で、容赦なく吹き付ける風が体温を奪っていきました。
予定より一時間ほど到着が遅れた金栗は、パンをかじって生卵二つを飲み込み、スタート地点へ。
今のようにスポーツウェアもない時代です。
皆バラバラの服装で、金栗の足下(あしもと)も黒足袋でした。
泥まみれの中、選手たちはついに走り出しました。
慣れない遠慮からか。
スタート直後から一団の後方につけていた金栗は、やがて誰よりも速く走りたいという欲求が湧いてきます。
脚に力を入れてギアをチェンジ。次々と他の俊足ランナーたちを抜き去ります。
そして残り1キロメートル地点。
金栗はライバルと肩をぶつけ合いながら走り、ついに一位でゴールインしました。
こわばった体で閉会式にのぞむと、驚くべきことが告げられました。
「世界記録達成!」
なんと金栗は、当時の世界記録を27分も縮めたのです。
とはいえ、ここに注意点があります。
当時のマラソンは「大会ごとに距離が違う」ということがありました。
現代からすると信じられないことですが、26.22マイル(42.195キロ)に固定されるのは1924年のパリ大会のこと。
1908年のロンドン大会は26.22マイル、そしてストックホルム大会は24.98マイルです。
つまり2キロメートルほどの差があります。
金栗本人ですら、この好記録は信じがたい結果でした。
そして、この奇跡に浮かれることはなく、冷静に分析するのです。
そのときの予選では、途中で飢えや渇きに耐えかねて、パンを買おうとしたり、田んぼの水を飲んだりした者すらいました。
明暗を分けたのは、スタート前のカロリー摂取ではないか――。
要は「適切な量の食事を取ったのが勝因だった」と、金栗は結論付けます。
もうひとつ。足袋の存在がありました。
レース中、足袋が破けたことには難儀しました。
あれさえなければもっと速く走れたはずだ。
金栗は、まだ自身の成績が伸びることを予感していたのですが……。
ストックホルム五輪への参加と本番
明治45年(1912年)早春、金栗は嘉納治五郎から呼び出されました。
「長距離では金栗君、短距離は三島弥彦君で、五輪に出場してもらうことに決まった」
世界記録樹立を果たした金栗が出場するのは、ごく当然のことでした。
が、ここで金栗は、一度、申し出を断っています。
彼の真意は不明ですが、それでも嘉納は、まるで三顧の礼を尽くすよう説得に当たります。
「金栗君、日本スポーツ界のためにも“黎明の鐘”となってくれ!」
こう説得されて、金栗は感激し、心が動かされました。
やるだけやってみようか。自分だけじゃなく国やみんなのためにもなるかもしれない……。
そう、考えたところでアタマの痛い現実もそこにはありました。
お金です。
地球の裏側ともいえるストックホルムまでの長い遠征費。
渡航費および5ヶ月にも及ぶ滞在費を、国は援助しないというのです。
金栗は苦しい思いで、郷里に援助を求める手紙を出しました。
手紙を受け取った金栗の兄は、一も二もなく弟の申し出を快諾しました。
さらには息子が長距離走に挑むことを反対していた母に加え、郷里の人々までもが彼を激励し、援助してくれたのです。
金栗は郷里の誇りとなっていました。
これからは日本の近代スポーツを担う人材となって欲しい――。
そう考えた人々は、彼のために遠征費用を捻出してくれたのです。
感激した金栗は、以前にも増して日々の練習に励むようになりました。
破れた足袋を縫い直しながら、毎日ひたすら走りました。
大変なのは、やはり準備です。
長距離の練習はもちろん、合間の時間に礼服を新調したり、洋食店に通って西洋料理のテーブルマナーを学んだり、さらには英語も習わねばなりません。
嘉納治五郎の盟友で、ストックホルム五輪の日本選手団監督となる大森兵蔵に、アメリカ出身で帰化した妻・安仁子がおりました。
英会話は、この安仁子に習いました。
かくして金栗は、日本中の期待を背負いながら、ストックホルムに向けて出発したのです。
海路でウラジオストク、シベリア鉄道で欧州へ
大正時代、ストックホルムへと向かうのはご想像どおり大変なことでした。
5月16日、新橋駅を出立。
金栗は遠征日記をノートに記し始めます。
神戸で船に乗り換えると、今度は海路でウラジオストクへ。そこからシベリア鉄道で、スウェーデンを目指します。
鉄道内では、食費を浮かせるため、安仁子が中心となって自炊をしていたというのだから、大変なことです。
自炊が中止となったときは、食堂車で安いメニューを味わいました。
一日中狭い車内でゆられる鉄道での旅。窮屈で、かなり大変なものです。
読者の皆さんも、移動だけでも疲れ果ててしまうのは、海外旅行で10時間規模のフライトをご経験されていればご理解いただけるでしょう。
全17日間の旅程を終え、金栗たちはようやくストックホルムへ到着するのでした。
ストックホルム到着 いよいよ五輪開幕へ
スウェーデンの首都・ストックホルム。
日本人にはほとんど縁のない北欧の国に降り立った金栗たちの前には、湖水輝く水の都の美しい景色が広がっていました。
ただし、宿舎は貧弱な建物で、さらに監督・大森は肺結核が悪化しているような状況。
金栗は監督に助言をもらうどころか、看病を手伝うような有様でした。
それでも大会本番を控え、金栗たちは練習に励みます。
ここで問題となったのが、入場プラカードの国名表記でした。
金栗は頑固に言い張りました。
「“日本”でよいじゃありませんか」
嘉納と大森はイヤイヤ……と遮ります。それでは誰も読めない、というわけです。
「ここはやはり“JAPAN”でしょう」
しかし金栗は「“JAPAN”なんてイギリス人が勝手に付けた名前だからダメだ」と頑固に言い張ります。
「ここはどうかね、“NIPPON”では」
嘉納が折衷案を提案すると、金栗もやっと折れました。
ちなみにこの表記はこの大会のみで、以降は“JAPAN”になりました。
かくしていよいよ競技が始まります。
短距離走にエントリーしていた三島弥彦の結果は以下の通りでした。
・100m 1次予選敗退
・200m 1次予選敗退
・400m 準決勝棄権
彼なりの全力の結果です。
400メートルでは準決勝進出を果たしたものの、体力の限界を迎えていました。
完全燃焼した満足感とともに、三島は棄権しました。
日本初のオリンピック短距離選手・三島弥彦~大会本番での成績は?
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レース中に突如消えた!?
7月14日、ついにマラソン競技当日となりました。
眠れぬままこの日を迎えた金栗。天気は快晴で、雲一つない日でした。
13時半、地鳴りのような歓声を背に、金栗は走り出しました。
スタートの合図すら聞こえず、無我夢中で他の選手について走り出します。
郷里の家族を思い出し、がむしゃらに走る金栗。暑い日でした。さんさんと真夏の日射しがそそぎます。
15キロほど走ったとき、意外な声がしました。
「がんばれっ!」
「金栗!」
スウェーデンに滞在中の日本人の応援でした。
金栗は俄然やる気をだします。
しかし、26キロほどを過ぎたところで、体に異変が起きます。
力が抜けて、目がくらみ、経験したことのないような苦痛に襲われました。
熱中症でした。
意識がもうろうとした金栗は、ペトレという農家の庭に迷い込みました。
そして、そこにあった椅子にへなへなと座り込んでしまったのです。
驚いたペトレ家の人々は、ラズベリーのレモネードや食べ物を与え、金栗を親切に介抱しました。
言葉が通じないので、英語ができる近所の人を呼んできました。
「私は東京の大学生です……」
金栗は朦朧としながらも、そう名乗りました。
ちなみに金栗のあと、他の選手もペトレ家に休みに来ました。
走れなくなった選手たちが倒れ、まるで野戦病院のような騒がしさでした。
ペトレ家はこのときの御礼として、メダルを受け取ることになります。
そんな事情を知らない観客や大会を知る人にとって、金栗は「消えた日本人の謎」と化しました。
亡くなって亡霊になったとか、お茶とお菓子をごちそうになっていたとか、二人の美女に導かれて消えてしまったとか。
様々な都市伝説が生まれたのです。
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