こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【金栗四三】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
過酷な条件で行われたレースで競技翌日に死者も
金栗は、なぜ倒れてしまったのでしょうか。
天候だけではなく、長旅の疲れ、極度の緊張……様々な要因があったのでしょう。
金栗は幸運であったかもしれません。
レース参加者の多くが棄権したばかりか、ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ選手は、競技翌日に急死しているのです。
スポーツ医学が未発達な当時は、現代よりはるかに危険な状況で競技が開催されており、当日がそうだった可能性は低くないでしょう。
今の我々は、こうした反省を経て、より安全な環境でスポーツを楽しむことができるのですね。
※実際、昔は部活中に水を飲ませて貰えずに熱中症で命を落とす若い学生さんもおりました(詳しいことは以下に関連記事がございます)
マラソン競技中に失踪した金栗四三、ペトレ家に救助され都市伝説となる
続きを見る
話をレース当日へと戻しましょう。
倒れた金栗の全身は、噴き出した汗が結晶となって、転々と白い模様となっていました。
ペトレ家の知人から用意して貰った服を着て、まだフラフラしながら宿舎に戻ると、怒り、打ちひしがれた様子の日本選手団の面々がいました。
監督の大森は、「いつまで待っていても日の丸がゴールしなくてね……」とガッカリした様子。
金栗はうなだれ、四年後の再起を誓うしかありませんでした。
金栗は敗因を冷静に分析しました。
1. 猛暑トレーニングの不足 / 予選は寒冷な秋であった
2. 練習と経験不足
3. スタートダッシュの失敗 / 外国人選手の勢いに圧倒され、ペースが落ちた
4. 足袋 / 外国人選手がゴム底の靴だった
5. 予選で世界記録を出したための慢心
6. 食物や生活環境の変化
7. 白夜による睡眠不足
多くの敗因がありました。
分析を終えた金栗は、むしろスッキリとした気持ちでした。
また次がある。悔しさと恥ずかしさをバネに、また頑張ろう。そう思えたのです。
嘉納は叱り飛ばすどころか、金栗にまた頑張ろうと優しい激励をしてくれました。
監督の大森は、肺結核が悪化し動けなくなってしまいました。
そのまま絶対安静を言い渡され、帰国できなくなったのです。そしてその後、夫人の親戚をたずねて行った先のボストンで客死していまいました。
金栗は、ストックホルムを出立する直前、ペトレ家の人々から食事に招かれました。
食事会は楽しく、なごやかな雰囲気の中で進んでゆきました。
このとき金栗は日本製の美しい小箱に、日本の紙幣を入れて御礼として渡しております。彼の律儀さを感じます。
欧州を見て回り、帰国した金栗を待っていたのは、激励の言葉と追試験でした。
五輪参加のため授業を欠席していた金栗は、一週間勉強に集中し、無事、試験に合格したのでした。
その後の五輪と箱根駅伝、女子スポーツ
目指せ、四年後のベルリン五輪!
金栗は、ストックホルムの屈辱を胸に、さらなる猛練習に励みました。
新たに外国の舗装道路を走ることや、炎暑を想定したトレーニングメニューも取り入れました。
足袋の改良、ドイツ語の学習、ベッドでの睡眠や洋食に慣れる訓練も、平行して取り組むほどです。
そして大正3年(1914年)、東京高等師範学校卒業の年となりました。
五輪の挑戦を目指し、教職に就くことは考えられません。
異例のことながら、教師への奉職を断り、「研究科」に籍を置くことになりました。
そして徒歩部に毎朝乗り込むと、盆正月も、雨の日も、雪の日も、練習に励む金栗。
常に全身真っ黒に日焼けしていました。
後進ランナーの育成や、スポーツ啓発にも取り組みました。
しかし、ベルリン五輪は第一次世界大戦の影響により、開催中止となってしまうのです。
次はアントワープ大会ですが、また四年間走るだけというのも、流石にどうかと金栗は悩みました。
そして嘉納に相談することにしたのです。
教師としての歩みと「箱根駅伝」
嘉納は、教師として指導する傍ら競技生活を続けたらどうかと言います。
そこで金栗は愛知一中に奉職しようと相談するのですが、「日本の金栗を愛知一中で独占はできない」と断られてしまいます。
最終的に金栗は、鎌倉にある神奈川師範学校へ赴任しました。
物分りよく優しい教師である金栗は、生徒からも人気。
ちなみにこのころ徴兵検査を受けておりますが、結果は甲種に届かない第一乙種。
身体能力が不適格なのではなく、その業績ゆえ、軍の判断で「スグに入営(軍に入ること)がないように」書き換えが行われていたようです。
神奈川師範学校からは、一年ほどで異動になりました。
日本のスポーツ界を担う人物が鎌倉にいては不便と考えた、嘉納による措置です。
次の赴任先は、独逸協会中学でした。
第一次世界大戦の敗北で、ドイツの評判は下落気味となっており、独逸協会中学も斜陽の学校とみなされていました。
しかし金栗が指導するようになると、活気が戻って来ます。
彼が顧問をつとめた徒歩部は、躍進著しいものがあったのです。
五年間にわたる独逸協会中学での日々は、指導者としての金栗にも充実したものでした。
なかでも、大正6年(1917年)に開催された、東海道五十三次を走る日本初の駅伝「東海道駅伝徒歩競走」は、金栗にとっても重要な大会でした。
このときは関東と関西に別れて競いました。
関東組のアンカーは金栗。
満開の桜の中、タスキを背負った金栗は関西組に大差をつけて、先にゴールしたのでした。
なおこの年、金栗は春野スヤという女性とお見合いをして、結婚しています。
大正5年(1916年)には、金栗ら三名の陸上選手が、東京箱根間を走る駅伝大会を発案しました。
そうです、今に至るまで正月の恒例行事である「箱根駅伝」です。
前述の通り1920年に第1回大会が始まり、東京高等師範学校が優勝しました。
このときの参加校は他に明治・早稲田・慶応の計4校で、翌年には東農大、法政、中央の3校も参考して計7校の中で明治が1位。
更に翌1922年には東大、日本歯科大学、日大も参加して、にわかに盛り上がってきますが、1923年には夜間学部に属する生徒の参加が禁止となりました。
人力車を引く車夫が参加するなどの問題が表面化したのです。
言い換えればさほどに同大会の注目度が上がっていたわけですね。
箱根駅伝の歴史と歴代優勝校~そもそも誰が何のために始めたか
続きを見る
二度目のアントワープ五輪へ
箱根駅伝と同年の大正9年(1920年)4月。
ベルギーでアントワープ五輪が開催されました。
金栗は自身8年目となるマラソン代表として予選を勝ち抜いて2度目の参加が決定。
日本選手団は、前回1912年のストックホルム五輪よりも選手が増えていました。
彼らは海路アメリカ経由で、目的地のベルギー・アントワープをめざします。
途中でアメリカにもゆっくり滞在し、スポーツ先進国を視察する目的も果たしました。
今回の選手団は、前回と比べて、格段に快適に過ごすことができました。
これも経験者である金栗が、よりよい環境づくりを行った結果であります。
そして8月22日、マラソンの当日(大会自体は4月20~9月12日という長さだった)。
前回のストックホルム大会とはうってかわって、鳥肌が立つような寒さでした。
金栗は膝に痛みを抱えつつ、レースに挑みます。
30キロ地点を通過するころには、5位にまで浮上。好調でした。
が、4位の走者を抜こうというときになって、左足首に痛みが走ります。
痛みは弱まるどころか、足首からふくらはぎ、そして大腿部へとジワジワと。
冷たい雨の中、痛みに麻痺したような脚を引きずってゴールしたとき、金栗は16位でした。
もしも脚の痛みさえなければ……無念の敗北でした。
この大会では、男子テニスの熊谷一弥と柏尾誠一郎がメダルを獲得したのみで、それ以外の日本選手は入賞を逃しました。
しかし金栗が何も得られなかったわけではありません。
海外でスポーツに取り組む女性の姿を見た金栗は「女子にもスポーツ教育が必要だ」と確信したのでした。
※続きは【次のページへ】をclick!