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【金栗四三】
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女子スポーツ教育振興に取り組む
女子スポーツ教育案を練る金栗に、嘉納は「東京女子師範はどうか」と紹介してきました。大正12年(1923年)のことです。
赴任先の女子師範に向かった金栗を迎えたのは、おてんば娘たち。
彼女らが親しんでいたスポーツは、自転車でした。
スカートや袴のまま乗り回せる自転車は、女性にとっても颯爽とした開放感の象徴でして。
西洋の婦人だけではなく、日本の女学生たちにとってもそうでした。
しかし、当時の世間は「女子がスポーツをするのは、はしたない、不要だ」という風潮でした。
この時代の女子教育とは良妻賢母になるためのもので、スポーツなぞもってのほか。
金栗はそうは思いません。
女子の健康のために、スポーツが必要だと信じていました。
そこで彼が考えた女子にふさわしいスポーツとは、テニスでした。
金栗の指導は厳しい、と同時に大変楽しいものでした。
無理矢理鍛えるというよりも、皆と楽しむものですので、生徒だけではなく教員までテニスに励んだのです。
そしてそれは昭和5年(1930年)の金栗退任まで、日本女子スポーツの種が蒔かれたのでした。
三度目のパリ五輪
大正13年(1924年)、金栗は三度目の五輪に挑みました。
今度はパリ大会です。
この年、金栗は既に30才を越えていて、選手としてのピークは過ぎていました。
本人としても後進選手にバトンを渡しておきたく、本来は出るつもりはありません。
しかし、予選会だけでも「後の選手たちに伴走する気持ちで」と周囲から背中を押され、これに出たのです。
と、この予選会で、金栗一門の選手たちはほとんどリタイアしてしまいます。
こうなると俄然やる気が湧いてくるもので、金栗は猛練習に励み、三度目の出場権利を手にするのでした。
三度目の参加。
マラソン競技の当日は、12年前のストックホルム五輪を思わせるような、暑い日でした。
金栗は前半こそ積極的に飛ばしたものの、32~33キロ付近で急激に意識が朦朧としてきて、またしてもリタイアしてしまったのです。
その前には20キロ付近で、田代菊之助もリタイアしており、日本人選手団の力のなさをあらためて痛感させられることになります。
確かに猛暑もありました。
そして睡眠不足の悪影響もありました。
しかし、四年に一度の大舞台で実力を発揮するためには、まだまだ新たな努力と工夫が必要であると、痛感させられた苦い結果でした。
そしてこの大会を最後に、金栗は選手としてのキャリアを終えるのでした。
四年後の昭和3年(1928年)アムステルダム五輪において、日本人選手の山田兼松が4位、津田清一郎が6位入賞を果たしました。
この知らせを、金栗は嬉しい気持ちで知りました。
彼の三度にわたる五輪挑戦は不本意な結果でしたが、道を切りひらき、後進を育てる役割は立派に果たしたのです。
昭和5年(1930年)、金栗はスポーツ嫌いの校長と対立し、東京女子師範を去りました。
4人の子の父となっていた金栗は、東京を去り郷里熊本に戻ると、子供たちにスポーツの楽しさを教え、悠々とした日々を過ごすことにしたのでした。
その後、昭和15年(1940年)の東京五輪大会準備に携わるため再度上京するものの、戦火の拡大により、幻に終わってしまったのでした。
スポーツマンとして初の紫綬褒章を受賞
太平洋戦争の影響は、言うまでもなく東京五輪中止だけにはとどまりません。
日本全土が焦土と化し、未来あるアスリートもふくめて、多くの人々が命を散らしました。
その傷がようやく癒え始めた昭和21年(1946年)10月20日、第一回全日本毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン→link)が開催。
これを皮切りに日本の長距離陸上も復活を遂げ始め、さらにその翌年には、金栗の名を冠した「第一回金栗賞マラソン」(現・金栗翁マラソン大会→link)が開催されます。
かつての韋駄天も、そのときには還暦の手前。
感無量の気持ちで、大会を見守ります。
金栗はこのあと、五輪やボストンマラソンといった国際大会で活躍する日本人選手の育成にあたりました。
そしてそれまでの功績を認められ、昭和30年(1955年)には、スポーツマンとしては初の紫綬褒章を受賞したのです。
55年ぶり感動のゴール
昭和42年(1967年)、金栗は思い出の地であるストックホルムの地に経ちました。
実に55年ぶりのこと。
ストックホルム五輪の記念行事に、招待されたのです。
金栗は、同五輪の大会で、記録上は棄権したという意志が伝わっておらず、未だゴールしてない状態だったのです。なんという粋な計らいでしょうか。
当時のまま残っているストックホルムのスタジアム。
金栗が少し走り、ゴールテープを切った瞬間、アナウンスが流れます。
「ストックホルム五輪全日程が、これにて終了しました」
続けて発表されたマラソンのタイムは「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒」。
ゴールした金栗は「この間に妻をめとり、子が6人と孫10人ができました」と挨拶をして、観客を沸かせました。
このストックホルム訪問の際、金栗は、かつてお世話になったペトレ家も訪れています。
そこで女主人からふるまわれたラズベリー味のレモネードを「55年前と同じだ」と喜び、飲み干しました。
金栗は大会以来、ペトレ家の人々と文通を続けていました。
そして半世紀以上のときを経て、再会を果たしたのです。
昭和58年(1983年)11月13日。
金栗は92才で大往生を遂げました。
一生涯を走ることに捧げ、「体力、気力、努力」を掲げて生き抜いた大アスリートの一生。
大河ドラマ『いだてん』での登場が今から待ち遠しくてなりません。
※なお、最後になりましたが田畑政治は、特に水泳競技の発展に尽力された方で、後に1964年東京オリンピックの開催を実現化された功労者です。物語が盛り上がること必至となりそうですね!
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
※1 大阪道頓堀のシンボルであるグリコは複数のランナーをモデルにデザインされました。
金栗四三だけでなく谷三三五(たにささご)やカタロン選手(フィリピン)などが含まれています(以下、マイナビ記事より引用)
グリコの記録に残っているのが「極東オリンピック(第5回極東選手権競技大会)で優勝したカタロン選手(フィリピンの選手でマラソンで優勝)をはじめ、パリオリンピック(1924年開催)に出場した谷三三五(たにささご)選手やマラソンの金栗四三(かなぐりしそう)選手で、その他、当時の多くの陸上選手らのにこやかなゴールイン姿をモデルにした」
【参考文献】
長谷川孝道『走れ二十五万キロ―マラソンの父金栗四三伝』(→amazon)
佐山和夫『箱根駅伝に賭けた夢 「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡』(→amazon)