飛鳥・奈良・平安時代

延喜・天暦の治をわかりやすくする人物エピソード! 醍醐天皇・村上天皇ほか

朱雀天皇(930-946年)

朱雀天皇は生来病弱だった上、その間に
平将門の乱
藤原純友の乱
・その他天災など
が立て続けに起きて心痛を極めたのでしょう。
24歳で譲位します。

皇位を引き継いだのは朱雀天皇の弟・村上天皇でした。

 

村上天皇と天暦の治946-967年

皇位についたときは満18歳の青年でした。
三年ほど外叔父の藤原忠平が関白を務めましたが、天暦三年(949年)に忠平が亡くなると摂関を置かず親政を行います。

とはいえ、摂関家の藤原実頼・師輔兄弟が政治の主導権を持っており、村上天皇の母・穏子や、存命中だった朱雀上皇もおり、完全な親政とはいえませんでした。
しかし親政にこだわることなく、承平・天慶の乱などによって逼迫していた財政を意識し、倹約に努めています。

村上天皇は、政治よりは文化面での功績が大きいかもしれません。

「後撰和歌集」の編纂や内裏での歌合(和歌の競技会)を催したりと、歌人の庇護者として振る舞っています。
村上天皇自身も琴や琵琶が上手だったとされており、根っからの文化人だったようです。

村上天皇/wikipediaより引用

たとえばこんなエピソードがあります。

あるとき、天皇の日常生活の場である内裏の清涼殿前に植えられていた梅の木が枯れてしまいました。
梅の花は、春に先駆けて咲くため古来から愛されており、内裏に一本もないのはいかにも寂しい話です。この頃は桜よりも梅を愛する人のほうが多かったかもしれませんしね。

そこで村上天皇は、どこかから良い梅の木を見つけて、清涼殿に植え替えるよう命じました。

結果、平安京のはずれのとある家に、とても見事な紅梅の木が見つかります。
担当者が家の者に事情を話して譲ってもらうことが決まると、使用人が出てきて
「主からの手紙を結びつけましたので、どうぞこのままお持ちください」
と奇妙なことを言いました。

担当者は訝しみながらも内裏へその梅の木を持ち帰り、村上天皇は大いに喜びました。

しかし、結びつけられていた手紙を開けてみると、そこには
「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ」
という歌が書きつけてありました。

意訳すると
「帝の仰せとあれば、この木をお渡ししない訳にはいきません。
でも、もしもこの木に毎年巣を作っている鶯が帰ってきて、『私の家はどこですか』と尋ねてきたら、私は何と答えれば良いのでしょう」
という感じですね。

ここでは読みやすさを優先して漢字を使いましたが、元の歌は女字=ひらがなだったといいます。
となると、かなりの歌才を持った女性が作者であり、梅の木の持ち主だったことになるわけです。

村上天皇は当然、その女性の素性に興味を持ちました。
そこでさっそく身元を調べさせると、彼女は紀貫之の娘・紀内侍(きのないし)だったといいます。
件の梅の木は、貫之が生前に世話していたもので、内侍も父の形見として同じように大切にしていたのだそうです。

既に植え替えが済んでしまっていますし、献上させたものを返すというのも格好がつきません。
知らなかったこととはいえ、村上天皇は「悪いことをしてしまった」と悔やんだそうです。

村上天皇の在位中は摂関家の権力が強まったり、内裏での火事などもあり、安穏な時代とはいいきれません。
しかし、「皇室は文化・学問を重視していれば、摂関家や政敵ともうまくやっていける」という方針を示した天皇と見ると、密かな功労者ともいえるでしょう。

 

宇多法皇(887-897年)

時代を遡って宇多天皇についても見ておきたいと思います。

菅原道真の庇護者ですから、道真との逸話があるのはモチのロン(死語サーセン)。
ここでは退位後のお話をご紹介しましょう。

左遷が決まったとき、道真は
「ながれゆく 我は水屑(みくず)となりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」
(意訳:いわれのない罪で遠くへ流されていく私を、貴方様のお力で助けてください)
という歌を宇多法皇に送ったとされています。

宇多法皇は出家した後、仏道修行に励んでおり、比叡山や熊野三山に詣でていることが多く、京都を留守にすることがたびたびありました。
道真左遷が朝廷で決定されたとき、宇多法皇はそういう会議が行われているということを知らず、慌てて朝廷に向かっています。

しかし既に時遅く、
「一度決まったことですので……」
と言われてしまって、道真を助けることができませんでした。

道真がその経緯をすべて知っていたかどうかはわかりません。
が、最後の最後まで「法皇様ならなんとかしてくださる」と思っていたのでしょう。

宇多法皇/wikipediaより引用

宇多法皇の有名な逸話としてもう一つ、嵯峨源氏の一人・源融(みなもと の とおる)との話があります。
※ちなみに、宇多天皇の祖父・仁明天皇が融の兄なので、宇多天皇にとって融は大叔父にあたります。臣籍降下したりすると、血縁関係が一層ややこしくなりますね(´・ω・`)

ともかく……。
融は生前、現代の京都六条のあたりに「河原院(かわらのいん)」という広大な邸宅を作り、住んでいました。
その後、融の息子・昇(のぼる)が宇多法皇にこの屋敷を献上し、法皇がここに住むようになります。

そしてある日、河原院の西にある部屋で人の気配がしたため、宇多法皇は不審に思ってよく見てみました。
すると、公家の正装である束帯姿の男性が控えていたのです。

普通なら、ここで側仕えの人を呼ぶなり何なりするはずですが、宇多法皇は肝が座っていたようで、自ら「お前は誰だ」と問いかけました。

「この屋敷の元の主でございます」

宇多法皇は「では融(とおる)の大臣か」と重ねて問うと、男はやはり頷くので、法皇はさらに「何の用か」と尋ねます。
融が亡くなっていることは当然知っているはずですから、幽霊であることもわかるはずですが……一度、帝を務め、さらに仏門に入った方となると違いますね。

すると融の幽霊は
「ここは我が家なので住んでおりますが、院がおいでなので気がとがめております」
と答えました。
これはこれで、法皇に対して随分な言いようという気がしないでもありません。

宇多法皇も気分を害し、
「私が無理に奪い取ったのならともかく、お前の息子に献じられたから住んでいるのに、迷惑がるとは何事か!」
と一喝。融の幽霊は、それを聞いてかき消えたのだとか。

何だか情けない気もしますが、こんな話ができた理由は、融の生前の行いによります。

融は生前、河原院を非常に愛しており、陸奥の塩竈(現在の宮城県塩竈市あたり)の風景を模した庭園を作り、尼崎から毎月海水を取り寄せていたというほどでした。

「融ならば、自分が死のうと法皇に献じられようと、河原院を手放さないに違いない」
と世間に思われるほど執着していた――世間からはそう見えたというエピソードとなります。

幽霊が実在するかどうかはさておき、こういう話が伝わっていると、天皇や皇族も人間なんだなあという気がしますね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「延喜・天暦の治」
醍醐天皇/wikipedia
村上天皇/wikipedia

 



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