寛弘八年(1011年)10月24日は、冷泉天皇が崩御された日です。
正確には既に位を退いていたので、「上皇」と表記するのが正しいんですが、わかりやすい表記で進めましょう。
村上天皇の第二皇子として生誕した冷泉天皇
冷泉天皇は天暦4年(950年)、村上天皇の第二皇子として生まれました。
母親が中宮・藤原安子だったため、生まれて間もなく皇太子になっています。
異母兄で第一皇子の広平親王は母親の身分が低かった上、幼い頃から有力な後ろ盾がなく、政治の中枢から締め出されたような形になってしまいました。
よくある話といえばそうですが、誕生直後からドロドロですね。
以下のような要素で皇位継承者が決まることが多いので、覚えておくと少しわかりやすくなるかもしれません。
1.母親の身分と君主からの寵愛度
2.生まれ順
3.母親の実家の権力
4.その他貴族の後押し
5.本人の妻の実家がどのくらい権力を持っているか
※上に行くほど優先度が高い
この頃は結婚していないので5は除外にしても、冷泉天皇は1・2・3全てがMAXレベルだったので、幼児のうちから将来が確定したというわけです。
男性シンボルの絵を手紙で送りつけた!?
康保四年(967年)、父・村上天皇が崩御したため、満17歳で即位します。
このくらいの歳であれば親政をしてもおかしくはありませんが、「奇行が多い」という理由で、母方の大伯父である藤原実頼が関白になりました。
どのくらいの奇行だったのか。
30年ほど後の学者・大江匡房(おおえの まさふさ)が書き記しています。
それだけの時が過ぎても語り継がれるほどインパクトがあったのか。
その間に拡大・脚色されたのか。
どちらなのかはわかりませんが、いわく、
・足が傷ついても一日中蹴鞠をしていた
・子供の頃、父である村上天皇への手紙の返事に男性のシンボルの絵を送りつけた
・清涼殿(天皇の住まい)の近くにある見張り小屋の上に座り込んだ
・病気のため寝込んでいたとき、大声で歌を歌った
とまぁ、こんな感じだったそうです。
最初と最後は異様といえなくもありませんが、他の点は子供のよくやる行動といってもいい気がしますね。
ヒステリックなところはあったかもしれませんが、家臣や女性に乱暴をしたというわけでもありませんし……子供の発達に詳しい方の見解をお聞きしたいところです。
時系列が前後しますが、ずっと後の話として「退位後の御所が火事になり、避難する途中、牛車の中で大声で歌を歌っていた」というものもあります。
これにしたって、「いきなり歌い出す」人は現代でもたまにいますしね。まあ、当時の常識からは外れているにしても。
即位直後から次期皇太子問題が持ち上がる
こういった「奇行」と生来の病弱さが手伝って、即位直後から次期皇太子問題が持ち上がりました。
まるで幕末の徳川家定(江戸幕府十三代将軍)あたりのようです。
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次期天皇として有力視されたのは二人。
いずれも冷泉天皇の同母弟で、村上天皇の第四皇子・為平親王と、第七皇子・守平親王(後の円融天皇)でした。
この場合、上記の法則に従えば為平親王が皇太子になるのが順当なところです。
しかし、為平親王の舅(妃の父)である左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)の台頭を望まない藤原氏が、為平親王の失脚を狙って画策します。
源高明は、元は醍醐天皇の第十皇子なので、臣籍降下したとはいえ実質的には皇族みたいなものです。そして為平親王が皇太子、そして将来天皇になれば、源高明は天皇の外戚になります。
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ついでにいうと、為平親王の皇子が皇位につくことになれば、高明は最大の権力を持ちえるわけです。
天皇の外戚として力を保ち続けたい藤原氏としては、高明の勢力拡大は防ぎたい……となりますね。
そんなわけで、為平親王の立太子と高明の実質的失脚を狙って、藤原氏は一芝居打ちました。
969年(安和二年)3月25日、テキトーな役人の謀反をでっち上げ、さらに「首謀者は高明です!」と主張したのです。
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