万寿4年(1027年)6月13日は源俊賢の命日です。
道長の妻である“源明子の兄”と言い換えたほうがわかりやすいでしょうか。
大河ドラマ『光る君へ』では妹の明子と道長に便乗して出世を企む――当初は小賢しい人物のように描かれていましたが、いざ道長が頂点に立つとその印象は完全に変わりました。
意外と使える男なのではないか?
というのも劇中では、出仕を拒んでいた藤原伊周と藤原隆家を上手く丸め込んで説得するほか、要所要所で道長の真意を掴み取り、如才なく補佐役を務めていたのです。
名門の生まれだけでなく、幼い頃から苦労を重ねてきただけに、心情の機微に敏感な人物として描かれたのかもしれません。
では、史実における源俊賢とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。

『前賢故実 源俊賢』菊池容斎/wikipediaより引用
悲運の父・源高明の子
登場人物の名前が通称で記される『源氏物語』。
例えば主人公の「光源氏」は「光り輝くような賜姓皇族源氏」という意味であり、そのモデルは一体だれだったのか?
実際は藤原道長など複数いるとされますが、

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
天皇の子である源氏となると数が絞られてきて、この条件に該当する人物が源高明です。
醍醐天皇の第十皇子であり、貴人の相を持ち、聡明で学問に通じて、壮麗な豪邸に暮らす――まさしく高貴な血を引く貴公子でした。
しかし、この源高明は、突如失脚します。
安和2年(969年)に起きた【安和の変】によって藤原氏との政争に敗れ、政界から追い出されるのです。
※以下は安和の変の関連記事となります
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安和の変で源高明が没落|なぜ明子(道長の妻)の父は藤原氏に蹴落とされたのか
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光源氏は、須磨に流されても後に復帰できましたが、源高明はそれよりはるかに遠い九州の筑紫であり、復帰は叶いません。
そんな高明のもとに、まだ11か12ほどの幼い息子が付き添っていたとされます。
天徳4年(960年)に生まれた高明の三男、元服前の源俊賢です。
学問を好む父の方針により、俊賢は大学でも学び、学問に打ち込みました。
この父と子の教育方針は、『源氏物語』の光源氏と夕霧父子のようにも思えます。
父を追いやった藤原氏の庇護下に入る
藤原氏が源高明の失脚を目論んで起きた【安和の変】。
源俊賢の生涯を振り返る上で欠かせない事件でもありますので、少しだけ詳しく振り返っておきましょう。
康保4年(967年)に即位した冷泉天皇は体が弱い上に、子供がいませんでした。
ならばできるだけ早いうちに東宮を決めなければならない。
そこで候補に挙げられたのが
・為平親王(妃の父が源高明)
・守平親王(藤原師輔の子である安子が母)
という二人であり、この対立構造に敗れて源高明は失脚したのです。
その後、守平親王が即位して訪れた円融天皇の御代。

平安京/wikipediaより引用
源俊賢にしてみれば父の仇である藤原氏の時代でもあり、簡単に言えば敵対勢力――と、そんなことを考えても仕方ないと割り切ったのか、驚くことに俊賢は出世ルートを歩んでゆきます。
それはザッと以下の通り。
・天延3年(975年)従五位下に叙爵
・貞元2年(977年)侍従任官
・永観2年(984年)従五位上、左兵衛権佐叙任
・寛和2年(986年)左近衛権少将
十代半ばから二十代半ばにかけての十年間で順調に出世しておりました。
出世の裏に兼家の影あり
なぜ、源俊賢は見事に出世街道へ乗ることができたのか?
失脚したばかりの父を持ちながら、これは不思議なことです。
そこに見えてくるのが藤原兼家の影。

藤原兼家/wikipediaより引用
円融天皇には、兼家の娘である藤原詮子と、兼家のライバルともいえる藤原頼忠、その娘・藤原遵子が入内していました。
詮子が皇子を産んでリードするのですが、中宮とされたのは遵子です。
そんな情勢の中、兼家としては手駒を増やしたい。
源高明の遺児である源俊賢と源経房の兄弟はうってつけだったのでしょう。
さらに、藤原詮子は源高明の娘である源明子を、弟・藤原道長の妻として勧めています。
高明の遺児たちが父の悲運を覆すため、藤原兼家とその子らに引き立てられることは、一見屈辱でありながら同時に他にない貴重な道筋でもありました。
道隆の信頼も得て順調な出世を遂げる
藤原兼家の全盛期であれば、彼に己の全てをベットすればよい――問題はその子の世代です。
兼家と、その嫡妻・藤原時姫の間には、三人の息子がいました。
円融天皇がまだ若いうちに譲位し、その弟である花山天皇が即位すると、その後、程なくして不可解な退位をしています。
兼家の二男である道兼が大きく関わった【寛和の変】であり、『光る君へ』でも描かれていましたね。

道兼によって出家に追い込まれた花山天皇を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用
そして兼家にとって孫である一条天皇が即位すると、今度はまた別の争いが始まります。
さて、どの勢力につくべきか?
まさしく摂関政治のクライマックスであり、清少納言の『枕草子』や、紫式部の『源氏物語』などの制作背景として欠かせない要素――と、後世からすればそんな見どころになりますが、当時の貴族にとってはたまったものじゃなかったでしょう。
一つチョイスを間違えれば瞬時に落とされる。
そこをバランスよく泳ぎ抜いていくのが、この源俊賢です。
『光る君へ』の劇中では妹の明子に呆れられ、当初は無能な人物像にも映っていましたが、実際は一条天皇の時代にも、順調に出世を重ねてゆきます。
永延2年(988年)右少弁兼五位蔵人
永祚2年(990年)正五位下・右中弁
正暦3年(992年)蔵人頭
正暦4年(993年)従四位下
正暦5年(994年)権左中弁
長徳元年(995年)参議に任ぜられ公卿に列する
史実における源俊賢は、関白となった藤原道隆のもとでちゃっかり出世を重ねていたのです。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用
妹が夫とした道長だけでなく、道隆ともきちんと関係を築いていたのは、素晴らしいバランス感覚ではありませんか。
しかもこの俊賢、上に媚びへつらうだけの嫌らしいタイプではなく、ライバルや下の者に対しても気遣いできる人物だったとも思わせます。
一条期の四納言
源俊賢には出世を競うようなライバルがいました。
『光る君へ』でも華々しく登場している以下のメンバーで【一条朝の四納言(しなごん)】とも呼ばれます。
圧倒的な華がありますよね。
何かと辛辣な藤原実資からすれば「おまえら、道長金魚のフンだな」という評価になりますが、この四人が有職故実、つまり当時の貴族に求められる才能を有していたことは確かです。
中でも藤原行成は、書道においては伝説級の人物として知られます。

藤原行成/wikipediaより引用
四人の実務能力はひとまず横に置き、出自からすると父が大きく失脚した俊賢は一歩出遅れたポジション。
それでもぬかりなく出世できたのは、妹が道長の妻になったことも影響したでしょう。
しかし、です。
道長にしたって、何もスンナリ出世できたわけではありません。
父の兼家から跡を継いだのは、あくまで長兄の道隆であり、その後、道兼がほんの一瞬だけ「七日関白」となる。
問題はその後です。
確かにポジション的には道長が一歩前にでますが、道隆の子である定子が一条天皇の寵愛を受け、その息子である藤原伊周・藤原隆家の兄弟が権勢を握るのです。
しかし……。
長徳2年(996年)に起きた【長徳の変】によって、流れは一気に道長へ傾きました。
温情をかけた藤原行成と親友に
【長徳の変】で花山院に矢を放った藤原伊周と藤原隆家の兄弟は、事件が表沙汰になると失脚。

藤原伊周/wikipediaより引用
いよいよ道長が政界の中央に進んでくると、源俊賢は、サッと道を譲るように一歩退がります。
政権交代の最中、どちらにつくわけでもなく、バランスよく振る舞っていた俊賢は、一見、ただの風見鶏のようにも見えてしまいますが、当時はまだ「忠臣は二君に事(つか)えず」という概念が定着しているわけでもありません。
要は、世渡り上手で、気持ちをすぐに入れ替えられるタイプだったのでしょう。
しかも俊賢には、没落した側の恩義に報いる情もありました。
長徳元年(995年)参議に昇進の際、後任の蔵人頭をどうするか一条天皇に問われて、藤原行成を推しました。役人としてはいまひとつ芽が出ない行成に手を差し伸べた形です。

一条天皇/wikipediaより引用
これに恩義を感じた行成は俊賢を慕い、以降、二人は親友となった。
俊賢の嫡子・顕基は、行成の娘を妻に迎えています。
日本書道史において大きな足跡を残す行成が、心を落ち着けて書に向き合うことができたのも、俊賢の優しさあってのことかもしれませんね。
『光る君へ』では今後もドロドロした政治劇が描かれることでしょう。
そんな中、貴公子同士が助け合う場面は、一服の清涼剤になるかもしれません。
道長時代も、ますます順調に出世
源俊賢は、藤原道長にも気に入られ、その後も無事に出世を遂げてゆきます。
長徳3年(997年)従四位上
長保2年(1000年)正四位下
長保3年(1001年)従三位
長保5年(1003年)正三位
寛弘元年(1004年)権中納言
寛弘5年(1008年)従二位
寛弘7年(1010年)正二位
俊賢は、道長の娘である中宮・藤原彰子とも近い距離にありました。
中宮権大夫(のち大夫)を務めたのです。

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用
俊賢の出世は、彰子が皇太后・太皇太后へと進むにつれ、比例して引き上げられてゆきます。
そして実に二十余年の間、宮大夫を勤め上げたのです。
俊賢の歩みには、道長の姉である藤原詮子、道長の妻である源明子、そして藤原彰子という、女性に近いルートがみてとれます。
女系も重視する当時の【双系制】らしい出世ルートだったんですね。
正二位まで上り詰めた栄光の生涯
ただし、居並ぶライバルを圧倒した出世街道でも、いざ三条天皇の御代となると翳りが出ます。
出世が止まったのです。

三条天皇/wikipediaより引用
後一条天皇の御代となった寛仁元年(1017年)、俊賢は権大納言に昇進しました。
彼の政治家としての務めも、もう終わりが見えてきます。
このころ三度に渡り辞表を提出し、寛仁3年(1019年)、ようやく権大納言としての致仕を許されました。
万寿3年(1026年)に全ての職から致仕。
万寿4年(1027年)6月12日、病が重篤であることから出家し、その翌日に世を去りました。
奇しくも享年69は父・高明と一致しますが、正二位まで出世した上級貴族の中でも立派な、輝かしい人生と言えるでしょう。
父の悲劇からここまで上り詰めた才覚だけでなく、温厚な人柄を持つ好人物でした。
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【参考文献】
倉本一宏『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
倉本一宏『ビギナーズクラシック 小右記』(→amazon)
他




