平安時代は、平和で安らかなんて字面通りには行かず、なかなかの頻度で権力争いが起きていた――というのは大河ドラマ『光る君へ』をご覧の皆様ならご承知かもしれません。
今回注目したいのは貞観8年(866年)閏3月10日に始まった、なんともキナ臭い事件。
【応天門の変】です。
天皇の職場やお住いにほど近いところの応天門が何者かによって放火されるという由々しき事態が引き起こされました。
現在で言えば皇居が狙われ、いずれかの門が燃え盛るといった感じでしょうか。
ということで応天門の変を見て参りたいと思います。
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平安京の大内裏の中 朝堂院の正門だった
まずはタイトルにもある応天門について。
どこにあって、どんな門だったのか?
場所は、平安京の大内裏(皇居)の中にありました。もっと細かく示すと「朝堂院(ちょうどういん)」というお役所エリアの正門になります。
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ここで天皇が朝政(早朝に行われる政務)などを行うため、大変、重要な場所だということがおわかりでしょう。
現在は平安神宮に応天門の縮小版レプリカがあります。
立ち寄られた際は、この事件のことをイメージしてみるのもいいかもしれませんね。
では、事件のことを追って参りましょう。
時間帯が少しズレたら天皇や貴族たちに直撃していた!?
ときは貞観八年(866年)の閏3月10日夜。
突如として応天門が物理的に炎上してしまい、朝廷内は大騒ぎになりました。
放火の正確な時間は不明ながら、それが例えば深夜3時とか4時とかでしたら非常に危険でした。
なんせ当時の昼夜の感覚は現代と全く違います。
応天門が開くのは朝の六時半(!)で、そのあたりから貴族たちが出勤してくるわけです。
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当然、ときの帝もその前から身支度をしたり、移動をしたりしますよね。
しかも上記の通り、応天門は「早朝に天皇が政務を行う場所」の正門です。
となると、もしも時間が早朝にズレ込んでいたら、天皇の身に危険が及ぶ可能性もあったわけです。
それでなくても大内裏の中=天皇の住まいの近くですし、朝廷にとっては一大事。
そんなわけで、直ちに犯人の捜索が行われました。
が、捜査は難航し、8月になってようやく情報提供者が現れます。
申し出たのは左京(京都の朱雀大路より東側)に住んでいた大宅鷹取(おおやけのたかとり)という人。
彼は言いました。
「大納言の伴善男(とものよしお)が犯人だ」
鷹取の娘が、善男の従者にブッコロされ
さっそく善男の取り調べが始まり、その最中にもう一つ事件が起きます。
鷹取の娘が、善男の従者にブッコロされてしまったのです。
従者としては主を救いたい一心だったのかもしれませんが、これでは逆効果。善男の嫌疑はさらに強まります。
また、従者たちも厳しい取り調べに耐えきれず、「善男とその息子・伴中庸(とものなかつね)が放火した。源信(みなもとのまこと)を失脚させるためだった」と自白します。
源信は嵯峨天皇の皇子で、臣籍に降って源氏になっていました。この時点では、善男とは政敵といった感じです。
少し時間軸を前に戻しまして、実は、善男が告発される前は、源信が疑われていました。
というか、善男が「アイツが下手人に違いない!」と言って、勝手に兵を動かして源信を捕縛しようとしたのです。
太政大臣である藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、この善男の慌ただしい行動を怪しみ、清和天皇に確認を取りました。
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これには天皇も寝耳に水といった様子。
そこで朝廷から仲裁の使者が派遣され、源信はお咎めなしとなっています。
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しかし源信は相当ショックだったようで、この嫌疑をきっかけに引きこもるようになってしまい、三年後に落馬が原因で亡くなってしまいました。
手段を選ばなさ過ぎる感はあるにせよ、政敵排除のためにやった……というのは、動機としては自然ですね。
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