承和の変

恒貞親王(左)と藤原良房/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

承和の変は良房の陰謀か~嵯峨派と淳和派のドタバタに乗じて藤原無双が発動す

どんな組織でも、地盤が固まるまでには諸々のトラブルが勃発するもんです。

平安京ができてからの数十年間もまさにそんな感じで、今回は、承和9年(842年)7月17日に起きた【承和の変】に注目です。

当時の状況を振り返ってみますと……。

遡ること32年前(810年)には【薬子の変】もありました。

薬子の変では、藤原氏の式家が没落し、北家がのし上がるキッカケとなった――北家は、藤原道長も輩出した、藤原No.1の家系だよ、と以下の記事にまとめさせていただきましたが、

薬子の変
薬子の変は薬子が平城上皇を誑かしたから?平城京で一体何が起きていたのか

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藤原氏の権力闘争が行われていた一方、皇室の動きはどうだったのか?

本題である【承和の変】を見るまえに、まずは天皇サイドの動向を確認しておきましょう。

 


即位の流れは嵯峨天皇を中心に見てみよう

薬子の変で平城上皇との争いに決着をつけた嵯峨天皇は、それまでの皇太子(次の天皇候補)だった高岳親王(たかおかしんのう)を廃し、自らの弟である大伴親王を立てました。

ここから結構ややこしくなりますので、ゆっくり説明させていただきますね。

まず、平城上皇、嵯峨天皇、大伴親王は、すべて桓武天皇の子、つまり全員が兄弟です。

一方、高岳親王は平城上皇の子にあたります。

図式にするとこんな感じです。

【桓武天皇の子供たち】

◆第一皇子の平城上皇―その子・高岳親王

◆第二皇子の嵯峨天皇

◆第七皇子の大伴親王

桓武天皇
桓武天皇が遷都のほか様々な改革を実行できたのはなぜか?平安前期を振り返る

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大伴親王だけ母が違うのですが、嵯峨天皇の次に淳和天皇として即位しました。

そして次の皇太子には、淳和天皇の子供ではなく、嵯峨上皇の子・正良親王(まさらしんのう・後の仁明天皇)が選ばれます。

そろそろ、きな臭くなってきましたかね。

 


嵯峨天皇から見た即位の流れ

要はこの段階では【嵯峨天皇を中心に動いていた】とも見ることができまして。

その視点から即位の流れを追った方がわかりやすそうです。おさらいしてみましょう。

【嵯峨天皇から見た即位の流れ】

兄(51代・平城天皇)

自分(52代・嵯峨天皇)

※嵯峨天皇の兄である平城天皇の子・高岳親王は皇太子を降ろされ天皇になれず

弟(53代・淳和天皇)

嵯峨天皇の子供(54代仁明天皇)

嵯峨天皇が、自分の弟である大伴親王を淳和天皇にせず、最初から自分の息子を皇太子にして系統を確実にしておけば、ここから先の問題は起きなかったかもしれません。

しかし、間に弟を挟み、その後に自らの子を即位させてしまったことが、結果的に

・嵯峨天皇系

・淳和天皇系

という複数の皇統を産み出してしまいました。

そのため臣下の間にも【嵯峨派】と【淳和派】という派閥が生まれてしまうのです。

 


危機感を募らせる淳和派の恒貞親王シンパ

この派閥争いは、嵯峨派の第54代・仁明天皇が即位してから、日に日に深まっていきます。

こちらも図式化しておきましょう。

【嵯峨派】

嵯峨上皇

仁明天皇(嵯峨天皇の子供)

藤原良房(冬嗣の息子で藤原北家)

橘氏公(仁明天皇の外叔父)たち

【淳和派】

淳和上皇

恒貞親王(淳和上皇の第二皇子・この時点で皇太子)

藤原愛発(薬子の変で旨味を吸った藤原冬嗣の弟)

藤原吉野(藤原式家)

文室秋津など

兄弟の順番を守るとすれば、【嵯峨派】の第54代仁明天皇の次には【淳和派】の恒貞親王が即位し、その後再び【嵯峨派】である仁明天皇の皇子が皇太子となって、平穏が保たれるはずでした。

嵯峨天皇(嵯峨派)

淳和天皇(淳和派)

仁明天皇(嵯峨派)

恒貞親王(淳和派)

仁明天皇の皇子(嵯峨派)

という流れですね。

しかし、ここで不幸が重なります。

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