どんな組織でも、地盤が固まるまでには諸々のトラブルが勃発するもんです。
平安京ができてからの数十年間もまさにそんな感じで、今回は、承和9年(842年)7月17日に起きた【承和の変】に注目です。
当時の状況を振り返ってみますと……。
遡ること32年前(810年)には【薬子の変】もありました。
薬子の変では、藤原氏の式家が没落し、北家がのし上がるキッカケとなった――北家は、藤原道長も輩出した、藤原No.1の家系だよ、と以下の記事にまとめさせていただきましたが、
薬子の変は薬子が平城上皇を誑かしたから?平城京で一体何が起きていたのか
続きを見る
藤原氏の権力闘争が行われていた一方、皇室の動きはどうだったのか?
本題である【承和の変】を見るまえに、まずは天皇サイドの動向を確認しておきましょう。
お好きな項目に飛べる目次
即位の流れは嵯峨天皇を中心に見てみよう
薬子の変で平城上皇との争いに決着をつけた嵯峨天皇は、それまでの皇太子(次の天皇候補)だった高岳親王(たかおかしんのう)を廃し、自らの弟である大伴親王を立てました。
ここから結構ややこしくなりますので、ゆっくり説明させていただきますね。
まず、平城上皇、嵯峨天皇、大伴親王は、すべて桓武天皇の子、つまり全員が兄弟です。
一方、高岳親王は平城上皇の子にあたります。
図式にするとこんな感じです。
【桓武天皇の子供たち】
◆第一皇子の平城上皇―その子・高岳親王
◆第二皇子の嵯峨天皇
◆第七皇子の大伴親王
桓武天皇が遷都のほか様々な改革を実行できたのはなぜか?平安前期を振り返る
続きを見る
大伴親王だけ母が違うのですが、嵯峨天皇の次に淳和天皇として即位しました。
そして次の皇太子には、淳和天皇の子供ではなく、嵯峨上皇の子・正良親王(まさらしんのう・後の仁明天皇)が選ばれます。
そろそろ、きな臭くなってきましたかね。
嵯峨天皇から見た即位の流れ
要はこの段階では【嵯峨天皇を中心に動いていた】とも見ることができまして。
その視点から即位の流れを追った方がわかりやすそうです。おさらいしてみましょう。
【嵯峨天皇から見た即位の流れ】
兄(51代・平城天皇)
↓
自分(52代・嵯峨天皇)
↓
※嵯峨天皇の兄である平城天皇の子・高岳親王は皇太子を降ろされ天皇になれず
↓
弟(53代・淳和天皇)
↓
嵯峨天皇の子供(54代仁明天皇)
嵯峨天皇が、自分の弟である大伴親王を淳和天皇にせず、最初から自分の息子を皇太子にして系統を確実にしておけば、ここから先の問題は起きなかったかもしれません。
しかし、間に弟を挟み、その後に自らの子を即位させてしまったことが、結果的に
・嵯峨天皇系
・淳和天皇系
という複数の皇統を産み出してしまいました。
そのため臣下の間にも【嵯峨派】と【淳和派】という派閥が生まれてしまうのです。
危機感を募らせる淳和派の恒貞親王シンパ
この派閥争いは、嵯峨派の第54代・仁明天皇が即位してから、日に日に深まっていきます。
こちらも図式化しておきましょう。
【淳和派】
淳和上皇
恒貞親王(淳和上皇の第二皇子・この時点で皇太子)
藤原愛発(薬子の変で旨味を吸った藤原冬嗣の弟)
藤原吉野(藤原式家)
文室秋津など
兄弟の順番を守るとすれば、【嵯峨派】の第54代仁明天皇の次には【淳和派】の恒貞親王が即位し、その後再び【嵯峨派】である仁明天皇の皇子が皇太子となって、平穏が保たれるはずでした。
嵯峨天皇(嵯峨派)
↓
淳和天皇(淳和派)
↓
仁明天皇(嵯峨派)
↓
恒貞親王(淳和派)
↓
仁明天皇の皇子(嵯峨派)
という流れですね。
しかし、ここで不幸が重なります。
※続きは【次のページへ】をclick!