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【承和の変】
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淳和上皇に続き嵯峨上皇も崩御
承和七年(840年)に淳和上皇が崩御し、さらに嵯峨上皇が重病となって、2年後に同じく崩御してしまったのです。
ぶっちゃけて言うと、「朝廷のツートップが一気にいなくなってしまったため、誰も家臣たちの頭を押さえることができなくなってしまった」という感じで、一気に暗雲が立ち込めます。
危機感を募らせたのは恒貞親王を推す人々でした。
上記の通り、本来なら仁明天皇の次代は恒貞親王が天皇になる――という流れですが、すでにそんなパワーバランスは崩れかけております。
そこで動いたのが伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(三筆の一人)でした。
彼らは恒貞親王の側近たちで、
「いっそのこと東国で兵を挙げて戦い、自分たちの国を作り直そう!」
としたのです。
これが【承和の変】、物理的行動のスタートです。
首謀者たちは捕らえられ流罪に
伴健岑と橘逸勢の2人は、平城上皇の第一皇子である阿保親王(在原行平・在原業平の父)に陰謀への協力を求めました。
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しかし、阿保親王は拒否するばかりか、太皇太后(嵯峨天皇の皇后)である橘嘉智子(たちばな の かちこ)へ事の次第を報告します。
阿保親王からすると、橘嘉智子は義理の叔母という微妙に遠い関係です。
彼女が温厚な人柄であったこと、挙兵した橘逸勢とイトコという間柄だったことから、なんとか穏便に済ませようとしたのではないかという見立てもありますが、嘉智子は藤原良房と仲がよく、さすがに報告せずにはいられません。
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ついに嵯峨派の藤原良房がこれを表沙汰にし、朝廷から追っ手を出して伴健岑と橘逸勢を拷問にかけるのでした。
どちらも自白はしませんでした。
しかし、最終的には「春宮坊(とうぐうぼう・皇太子の身辺を司る役所)を中心とする謀反事件である」と判断され、主謀者・伴健岑は隠岐に、共犯とされた橘逸勢は伊豆に配流が決まります。
既に老齢だった逸勢は、その途中の遠江で亡くなりました。
また、恒貞親王は廃太子となり、その後は仏教に深く帰依しています。
そもそも恒貞親王は、温厚な人柄で皇位を望んでもおらず、元慶八年(884年)に陽成天皇が位を追われたときに即位を持ちかけられても、固辞したとか。
ならば最初から争う意味もなかった気がするのですが……実はこの一件には藤原良房による陰謀説も囁かれております。
藤原良房の陰謀事件だった!?
恒貞親王派は、上記の3人を含め、60人以上が処罰されたといわれています。
クーデターが未遂で済んでいる割に処罰された範囲が広く重いこと。
恒貞親王派の動機があいまいなこと。
中心人物が自白しなかったこと。
そんな状況から「承和の変は、藤原良房による陰謀事件だ」ともされています。
反対派の排斥ありきで動いていたのでは?という推測ですね。
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たしかに、三十年前の「薬子の変」のとき、平城上皇が東国に行こうとして失敗していたわけですから、健岑が「東に行けばなんとかなる」と考えるのは違和感があります。
それに、この事件の後、良房の妹・藤原順子の産んだ道康親王(後の文徳天皇)が皇太子になっているというのがなんとも……。
良房は承和の変で恒貞親王派を追いやったことで、外伯父として一番オイシイ立場になったんですね。そりゃ怪しすぎるわ。
ついでにいうと、阿保親王がこの変の三ヶ月後に急死しているのも、何だかアヤシイかほりがします。
満50歳でしたから、当時だったら十分に寿命と考えてもいい歳ではあるのですが……。
上記の通り、阿保親王はこの変の穏便な解決を願っていたようなフシもあるので、良房にとっては邪魔者に見えたでしょう。
とはいえ「皇族をブッコロした」なんてことがバレれば、さすがに良房や藤原北家の立場も危うくなり、かなりの綱渡りでもあります。
何にせよ、これで藤原北家は一段と勢力を強めました。
そして次に起きた【応天門の変】で、さらに他氏排斥を進めていきます。
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なお、平城天皇の子で皇太子のポジションから外されてしまった高岳親王は、その後、天竺(インド)を目指すという、ある意味一番オモシロイ人生を送っています。
よろしければ併せてお読みください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「承和の変」
承和の変/wikipedia