藤原良房/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安時代

藤原良房が皇族以外では初めて摂政に就任! そして藤原無双が始まった

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貞観八年(866年)8月19日は、藤原良房(ふじわらのよしふさ・804~872年)が摂政せっしょうの座についた日です。

なぜこれが歴史的な出来事か?

というと摂政という役職が特別なものであり、皇族以外では初めて良房が就任したからであります。

少し詳しく見て参りましょう。

 

藤原良房の妻は仁明天皇の姉

摂政とは本来、王様や天皇が幼少・女性・病弱などの理由で、一人で政治を行うことが難しい場合に任命されます。

日本だけでなく、古代ギリシアや中国、ヨーロッパの王室にも似たような役職が存在。
王様に代わって政治をする重要な仕事ですから、ほとんどの場合、王族や皇族がつくことになっておりました。

しかし藤原良房は名前の通り藤原氏で、天皇家の人間ではありません。

なぜ摂政になることができたのか?

天平元年(729年)、藤原光明子が初めて、皇族以外の皇后になりました。

以来、「天皇の奥さんは藤原氏から!」という習慣が生まれ、藤原良房の妹・順子(のぶこ)も、正妻(后)でこそありませんが、仁明天皇に嫁ぎました。

そして、藤原良房の正妻は源潔姫みなもとのきよひめという天皇家の姫です。

彼女は臣籍に降っていたので源姓ですが、仁明天皇のお姉さんに当たります。
現在でも女性の皇族が結婚すると皇族でなくなる、それに近いですね。

ということは、良房と仁明天皇は、二重の意味(妹の夫、妻の弟)で「義兄弟」となったのです。

 

父・冬嗣の影響力も大きかった

これには彼のお父さんである藤原冬嗣(ふゆつぐ)の影響力も大きかったです。

仁明天皇の父・嵯峨天皇の重臣として活躍した人だったので、良房も信頼されていたという理由もあります。お父さんの関係が引き継がれたのですね。

藤原冬嗣

ちょうど院政(退位した天皇が政治の実権を握ること)が定着しつつあった時代。
「それ、退位した意味あるの?」とかツッコんではいけません。

この時代は上皇(退位した天皇)や法皇(出家した上皇)は、天皇の後見役でした。
会社の創業者が息子に社長を譲りながら、自分も「代表取締役会長」に居座り、秘書も個室も会社のベンツも、そして権限も握ったままというようなものです。

なので、嵯峨上皇が「良房に仕事を手伝ってもらえばいいだろう」と言えば仁明天皇も「わかりました」と言わざるを得ません。

 

大事件、勃発! 応天門に放火

その後、仁明天皇は急死し、その息子の文徳天皇が即位すると、良房は強引に、生後9か月の文徳の息子(清和天皇)を皇太子に即位させます。
第四皇子でしたし、乳児を皇太子というのはこれまでにないことでした。

天安2年(858年)に文徳天皇が崩御すると、「清和天皇は子どもすぎるから」と、ここで一度、事実上の摂政となります。
しかし、まだこのときは常識が通じたのか、清和天皇が元服(成人)したあとはちゃんと摂政を返上しました。

ところが866年に京の大内裏(天皇が生活していた場所)の応天門が何者かによって放火されるという大事件が起きます。

応天門の変】と呼ばれる一大事ですね。
放火だけでも犯罪ですが、場所が天皇のすぐそばだったため大問題になりました。

犯人は誰なのか?

当初、伴善男とものよしおという良房のライバルが「左大臣の源信みなもとのまことが怪しいですよ!」と訴え出ました。

源信と、良房の正妻・源潔姫は異母兄弟です。
そこで良房は「俺の兄弟が悪いわけもない」と天皇に進言して訴えを下げさせます。

その後、良房がやったことがまたエゲツなかった。
逆に「アナタと息子さんが応天門に放火するのを見たって人がいるんですけどー?」と伴善男を訴えたのです。

 

伴善男を失脚させるためだった!?

すでに、乳児を皇太子というあり得ないことを通していた良房にとって、この程度のことはイージーモード。
良房の言う通りに裁決が進み、伴善男親子は流罪になってしまいました。

この裁定に疑問が残るのです。

今やすっかり教科書からも忘れられてしまった伴氏(大伴氏)ですが、大伴家持らを輩出し、以前は藤原氏とタメを張るほどの家でした。
※とある天皇の=本名が「大伴」だったため、臣下である大伴氏は「伴氏」と変えました

一度、落ちぶれてしまったこの家を盛り返したのが善男。
当然、藤原氏にとっては鬱陶しくて仕方がない存在でした。

そのため「良房が善男を失脚させるために、わざとやったのでは?」という推測が根強いのです。

 

藤原家は一日にして成らず

実際、邪魔者を排除した良房は、貞観八年(866年)8月19日、「天下の政を摂行せよ」との天皇の命令を引き出して、見事摂政の座につきました。

教科書的にはこのとき初めて臣下が初めて摂政となったとされている『日本三代実録』ですが、先に触れましたようにその前にも摂政をやっています。

いずれにせよ、この後、藤原氏の姫はどんどん天皇に嫁いでいきます。

後に台頭してくる平氏源氏も、元は天皇の子孫から枝分かれした家なので、藤原氏と遠い親戚ということもできます。
こうなると、この後の有名人にはほとんど藤原氏の血が入っていることになりますね。

恐るべし藤原一族。
歴史の授業では藤原道長ばかりが目立ちますが、それよりずっと以前から土台が作られてきた。

その中でも、藤原冬嗣―藤原良房ラインの功績は最大級のインパクトだったと言えるのではないでしょうか。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
藤原良房/wikipedia
藤原冬嗣/wikipedia

 



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