桓武天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安時代

桓武天皇のパワフル生涯~どうして遷都のほか様々な改革を実行できたのか

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菅原道真を追いやった藤原時平は祟りで……

低い身分から実力で身分を高めていった人もいました。
その代表例が菅原道真です。

藤原摂関家にとって、この出世が面白くないことは、皆さんご想像の通り。
せっかく自分の家の権力を確立させたのに、またかっさらわれるかもしれないわけですからね。

ときの天皇だった宇多天皇は道真らを庇護しましたが、その息子である醍醐天皇の代になると対立が深まり、摂関家の藤原時平によって道真は太宰府へ飛ばされてしまいます。

藤原時平/wikipediaより引用

時平は意欲的に政務へ取り組みましたが、道真を追いやってたった8年、満年齢にして38歳で亡くなってしまいました。
あまりにも唐突だったこと、他にも道真と対立していた人も同じように亡くなったことから、世間では「道真の祟りだ」と噂されています。

これを除けば、醍醐天皇と時平がタッグを組んでいた時代も「延喜の治」と呼ばれ、理想的な政治が行われていたと考えられていますが……。
祟りが本当にあるのかどうかは別として、やはり強引な手段を取ると、どこからかしっぺ返しをくらうものですね。

政治の流れはだいたいそんな感じです。
文化面のお話も、少々付け加えておきましょう。

 

弘仁・貞観文化とは?

ここまでの平安京は、唐(中国)の影響を強く受けていました。
そもそも、平安京自体が唐の都・長安を模して造られたものですしね。

漢文や書道などにも中国の影響が強くみられ、この時期の文化を【弘仁・貞観文化】と読んでいます。
元号そのまんまなのは日本史のお約束ですね。

書道といえば【三筆】と呼ばれる三人の名書家も欠かせません。

・嵯峨天皇
空海
・橘逸勢(たちばなの・はやなり)

上記の三人です。
逸勢だけは他の分野で名前が出てこないので、ちょっと覚えにくいかもしれませんね。
しかし彼には、なかなかなエピソードがあります。

橘逸勢の書とされる『伊都内親王願文』/wikipediaより引用

実は逸勢、延暦二十三年(804年)の遣唐使で最澄・空海と共に大陸へ渡ったのですが、あまりに中国語ができなくて涙目状態になり、
「書と琴なら、喋れなくても身につけることができる」
と思い直したのだとか。

それで1200年後の現代まで名を残しているのですから、いやはや何ともはや。
帰国後は無実の罪で伊豆への流罪になり、その途中で亡くなってしまっています。「能力はあるのにひたすら運が悪い人」という感じでしょうかね。

 

日本が“日本らしさ”に向かって歩み始めた

中国の影響を残す一方で、唐から帰国した
・最澄が天台宗
・空海が真言宗
を開き、日本の仏教が独自路線を歩み始めた時期でもありました。

日本の仏教で特に際立った特徴なのは、肉食を禁じていることです。
実は当初の仏教は「動物を殺すのはダメ(不殺生)だけど、肉食はしてもいい」ということになっていたのです。
つまり、現代の我々がしているように、肉屋さんなどで既に処理された肉を仏教徒が食べるのはおkとされていたのですね。

日本で家畜の肉食が禁じられたのは平安時代より前のことです。
が、その頃には仏教が定着していたので、日本古来の山岳信仰などが仏教に習合していったのと同じように、「仏教では肉食はダメ」ということでまとまったのでしょう。

イメージとしては「仏教がインドや中国を経て伝わり、日本で時代を重ねるうちに変化していった」くらいの認識でもよろしいかもしれませんね。

だいぶかっ飛ばしましたが、桓武天皇平安前期はこういった時代でした。

少々乱暴にまとめると「日本が“日本らしさ”に向かって歩み始めた」という感じでしょうか。
これが大きく飛躍していくのが、続く平安中期・後期です。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「桓武天皇」

 



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