欽明天皇十三年(552年)10月13日は、百済聖明王の使者が欽明天皇に仏像・仏具・経典を献上したとされる日です。
仏教伝来の一つですね。
仏教自体が公的に伝わったのはもう少し前だといわれているのですが、ともかくこれにより蘇我氏と物部氏が争い「丁未の乱(ていびのらん)」が起きます。
そのあらましを見て参りましょう。
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日本に伝わった大乗仏教と南へ進んだ上座部仏教
インドで生まれた仏教は、二つのルートでアジアに広まったとされます。
中国を経由して朝鮮半島・日本・ベトナムに広まった大乗仏教と、カンボジアやマレーシアへ行った上座部仏教。
昔は後者を「小乗仏教」といっていましたが、これは大乗仏教側から見た蔑視の意味が含まれるため、現在では使われなくなりました。たまにこういうのありますよね。
それぞれの教えの違いについては、とても長くなるので日を改めましょう。
新しいものを受け入れるのは、いつの時代も一悶着あるものです。
特に、古代社会において宗教は大変重要な役割を果たしますから、日本でも大いに揉めました。
中心となるのは、これまた古代史でおなじみの蘇我氏と物部氏です。
神道派である物部氏や大伴氏は国津神(天孫降臨の前から日本にいた神様)の末裔でもあるため、異国の神(仏)をあっさり認めてしまったら、自分のルーツを否定することになるわけです。そりゃマズい。
一方、仏教派の蘇我氏は、そもそも渡来人の家系という説があります。
実際、渡来人たちとの関係が深く、大陸の先進技術などに詳しいのも蘇我氏でした。
ご先祖様や仕事仲間が信じていた宗教を「これイイから皆にも教えよう」というわけで、これもまた自然な話です。
そんなわけで、
蘇我氏=仏教派=渡来人系(?)
vs
物部氏・大伴氏=神道派=地元民系
という複数の意味を持った対立が生まれます。
なかなかややこしいですが、一対一なだけ、まだマシですかね。
当初は蘇我氏の自宅だけで認められていた
当時の天皇である欽明天皇は「仏教? 何かご利益ありそうだしいいんじゃない?」(超訳)という考えでした。
同時に神道派の言い分にも一理あるとしました。
そのため、間を取って(?)「じゃあ、蘇我氏が自分の家の中で信仰するのだけは認めるよ。神道派もそれならいいよね?」という判断を下します。
このときは双方これで納得した……ことにしました。
かくして蘇我氏の当主である稲目は、百済から伝わった仏像を自分の家に安置し、礼拝を始めます。
これが日本初の仏教寺院・豊浦寺の始まりとされています。
しかし蘇我氏にとってはタイミング悪く、この直後に都の近辺で疫病が流行りだします。
神道派は「異国の神を迎えたせいで、我が国の神がお怒りになっているのです(だから言ったじゃねーか!)」と、再び仏教排斥を主張しました。
欽明天皇も「この流れじゃそうかもしれない」と思い始め、神道派が豊浦寺や仏像を焼却するのを黙認します。
このため、豊浦寺は残っていません。しかし……。
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