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【丁未の乱】
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物部氏は寺院や仏像をブッコワシ!
時が経って世代が変わり、仏教派・神道派それぞれの息子たちである蘇我馬子と物部守屋に対立が引き継がれました。
もちろん天皇も代替わりして、欽明天皇の息子である敏達天皇の世になっています。
そして敏達天皇十三年(548年)、今度は弥勒菩薩像が伝わりました。
蘇我氏は再びこれを祀り、拝んだところ、その直後にまたしても疫病が流行りだしたそうです。
神様や仏様の間で、目に見えない次元の戦いが起きていたんですかね。「北風と太陽」みたいな。
例によって物部氏は「だから仏教はダメなんだって!」と主張。
寺院の破却や仏像の破壊を押し進め、はたまた僧侶や尼僧の服を剥ぎ取って鞭打ちの刑にするなど、行き過ぎた仏教排斥を始めました。いくら何でもやり過ぎです。
しかし馬子は「そんなのただの偶然だろJK」と取り合わず、仏教信仰を止めませんでした。
仕方がないので、敏達天皇は父帝と同じように、蘇我氏の中だけで信仰することを許します。
この対立はさらに続き、敏達天皇の子・用明天皇の時代へ。古代史にはよくあることですが、スパンが長いというかノンビリしているというか。
「穢れ」の概念なき仏教が優位に立つ
このときは用明天皇自身が「病気快癒のお願いを仏様にしてみようと思うが、どうだろうか」と群臣に相談したことで、問題再燃のきっかけとなります。
というのも、神道では死や病気は「穢れ」としており、触れるべきものではないと考えられていたためです。
一方の仏教では「穢れ」という観点がないので、「仏様にお祈りすれば病気を治してもらえるかも」というわけです。
この時代にはまだ日本に伝わっていませんが、病気快癒や薬を司る「薬師如来」という仏様もいますしね。
これには流石に物部氏も強く出ることができなかったようです。
もしここで「やっぱり仏教はダメです!!」と主張してしまったら、「じゃあお前たちは陛下に死ねというのか、逆賊め! 成敗!!」となりかねません。
自分たちが信仰するかどうかは別として、仏教を黙認すれば少なくとも家は助かるわけです。はらわたは煮えくり返ってたでしょうが。
こうして一歩優勢になった蘇我氏は、他の豪族や皇族たちを味方につけ、続けざまに物部氏を武力で滅ぼしました。
これを「丁未の乱(ていびのらん)」といいます。
用明天皇の皇子の一人・聖徳太子(厩戸皇子)も参加しており、矢を射かけられたときは、仏様に「こちらが勝ったら仏教を厚く保護しますので、ご加護をくださいませ」と祈願したとか。
後に十七条の憲法で「仏・法・僧を敬うべし」としたのは、このときの約束を果たす意味もあったのかもしれません。
こうして最後は「解決(物理)」になり、残った蘇我氏の力によって仏教が広まっていきました。
また、用明天皇の病気は無事治ったようです。治ってなかったらさすがにドンパチやってる場合じゃないですからね。
どうでもいい話ですが、用明天皇の肖像画がめっちゃいい笑顔というか、「萌え~」みたいなすごく血色の良いお顔なんですけど、これは病気が治ってご満悦ってことなんですかね。
これを教科書に載せてくれれば一発で覚えられるのに(ボソッ
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
欽明天皇/wikipedia
用明天皇/wikipedia
仏教公伝/wikipedia