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【藤原良房】
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伴善男を失脚させるためだった!?
すでに、乳児を皇太子というあり得ないことを通していた良房にとって、この程度のことはイージーモード。
良房の言う通りに裁決が進み、伴善男親子は流罪になってしまいました。
この裁定に疑問が残るのです。
今やすっかり教科書からも忘れられてしまった伴氏(大伴氏)ですが、大伴家持らを輩出し、以前は藤原氏とタメを張るほどの家でした。
※とある天皇の諱=本名が「大伴」だったため、臣下である大伴氏は「伴氏」と変えました
一度、落ちぶれてしまったこの家を盛り返したのが善男。
当然、藤原氏にとっては鬱陶しくて仕方がない存在でした。
そのため「良房が善男を失脚させるために、わざとやったのでは?」という推測が根強いのです。
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「応天門の変」真犯人は誰? 伴善男の流罪で藤原良房はウッハウハ
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藤原家は一日にして成らず
実際、邪魔者を排除した良房は、貞観八年(866年)8月19日、「天下の政を摂行せよ」との天皇の命令を引き出して、見事摂政の座につきました。
教科書的にはこのとき初めて臣下が初めて摂政となったとされている『日本三代実録』ですが、先に触れましたようにその前にも摂政をやっています。
いずれにせよ、この後、藤原氏の姫はどんどん天皇に嫁いでいきます。
後に台頭してくる平氏や源氏も、元は天皇の子孫から枝分かれした家なので、藤原氏と遠い親戚ということもできます。
こうなると、この後の有名人にはほとんど藤原氏の血が入っていることになりますね。
恐るべし藤原一族。
歴史の授業では藤原道長ばかりが目立ちますが、それよりずっと以前から土台が作られてきた。
その中でも、藤原冬嗣―藤原良房ラインの功績は最大級のインパクトだったと言えるのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
藤原良房/wikipedia
藤原冬嗣/wikipedia