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弘仁・貞観文化とは?
ここまでの平安京は、唐(中国)の影響を強く受けていました。
そもそも、平安京自体が唐の都・長安を模して造られたものですしね。
漢文や書道などにも中国の影響が強くみられ、この時期の文化を【弘仁・貞観文化】と読んでいます。
元号そのまんまなのは日本史のお約束ですね。
書道といえば【三筆】と呼ばれる三人の名書家も欠かせません。
・嵯峨天皇
・空海
・橘逸勢(たちばなの・はやなり)
上記の三人です。
逸勢だけは他の分野で名前が出てこないので、ちょっと覚えにくいかもしれませんね。
しかし彼には、なかなかなエピソードがあります。
実は逸勢、延暦二十三年(804年)の遣唐使で最澄・空海と共に大陸へ渡ったのですが、あまりに中国語ができなくて涙目状態になり、
「書と琴なら、喋れなくても身につけることができる」
と思い直したのだとか。
それで1200年後の現代まで名を残しているのですから、いやはや何ともはや。
帰国後は無実の罪で伊豆への流罪になり、その途中で亡くなってしまっています。
「能力はあるのにひたすら運が悪い人」という感じでしょうかね。
日本が“日本らしさ”に向かって歩み始めた
中国の影響を残す一方で、唐から帰国した
・最澄が天台宗
・空海が真言宗
を開き、日本の仏教が独自路線を歩み始めた時期でもありました。
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日本の仏教で特に際立った特徴なのは、肉食を禁じていることです。
実は当初の仏教は「動物を殺すのはダメ(不殺生)だけど、肉食はしてもいい」ということになっていたのです。
つまり、現代の我々がしているように、肉屋さんなどで既に処理された肉を仏教徒が食べるのはおkとされていたのですね。
日本で家畜の肉食が禁じられたのは平安時代より前のことです。
その頃には仏教が定着していたので、日本古来の山岳信仰などが仏教に習合していったのと同じように、「仏教では肉食はダメ」ということでまとまったのでしょう。
イメージとしては「仏教がインドや中国を経て伝わり、日本で時代を重ねるうちに変化していった」くらいの認識でもよろしいかもしれませんね。
だいぶかっ飛ばしましたが、桓武天皇と平安前期はこういった時代でした。
少々乱暴にまとめると「日本が“日本らしさ”に向かって歩み始めた」という感じでしょうか。
これが大きく飛躍していくのが、続く平安中期・後期です。また後日。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「桓武天皇」