武士の起源

有力武家一門・清和源氏を描いた錦絵/国立国会図書館蔵

飛鳥・奈良・平安

武士はいつドコで生まれた? 諸説ある起源や成り立ちを整理してみた

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甲斐の武田や武蔵の北条

他には、信濃の長野盆地や松本盆地などが名馬の産地でした。

平安時代に信濃・上野・甲斐・武蔵に置かれていた32ヶ所の勅旨牧(ちょくしまき・国営牧場)のうち、信濃が半数を占めていたといいます。

この四ヶ国と言えば、武田信玄北条氏康、あるいは上杉謙信に関わってきます。

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戦国時代あたりまで有力な武士の本拠とされていたのも、元々名馬の産地だったことが大きな要因の一つでしょう。

実際、織田信長は、長篠の戦い前に武田家の騎馬隊を警戒している記述が『信長公記』にも見られたりします。

西国よりも騎馬に長けた東国の戦闘集団という認識があったのですね。

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こうして、あっちこっちで成り立ちの異なる武力を持った集団ができました。

その中には強盗や山賊・海賊など、よからぬことで生計を立てる者もいたでしょう。

平安時代に、令外の官で設置された「追捕使」などは、そういった賊に対する警察部隊として置かれ、徐々に国司や地方の豪族にその任が与えられるようになりました。

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要は、治安維持のためには、ある程度の軍事力が欠かせないワケです。当たり前ですが。

中央の公家たちも、全国に点在する荘園の管理や、地方の統治、自分の屋敷の警備などに武士を利用し始めました。

武士のほうでも公家とパイプができれば万々歳なので、ある意味win-winの関係が生まれます。

その後、平将門の乱藤原純友の乱などの衝突はあったものの、基本的に「中央政府は皇室と公家、地方の有力者は武士」という構図ができました。しかし……。

 


壇ノ浦の前に義経と景時が大喧嘩して

できたばかりの組織というのは不安定なものです。

現代で一般にイメージされるような、武士の主従関係がはっきりするのは鎌倉時代以降でした。

これを裏付けるエピソードとしては、源義経壇ノ浦の戦いに赴く際の話があります。

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このとき、義経の軍に梶原景時という人がいました。

彼は頼朝の家臣で、とても勇敢な武士です。鎌倉を動けない頼朝の代わりに、義経のお目付け役という意味もあって、同行していたと思われます。

景時は義経のことを「殿の弟さんだから、実質的には総大将」と見ていました。

しかし義経は「総大将はあくまで兄上であって、自分は一介の将(だから陣頭にたってもおk)」と考えていたのです。

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どちらの考え方も間違ってはいないのですが、このときは二人とも戦の直前でイライラしていたこともあり、一族や家臣を巻き込んで同士討ち寸前の大ゲンカになってしまいました。

平家側がこれを知っていたら、急襲するか、あるいはもっと遠くまで全速力で逃げるか、どちらかの対応をできたかもしれません。

もしもこの時点で「源氏のトップは頼朝であり、それ以外は一族の人間であっても家臣」という認識が共通のものだったら、このケンカは起きなかったはずです。

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この手の「お互いの認識がズレていたことによるトラブル」は後世でも多々ありますが、武士社会が確立されていない頃は日常茶飯事だったと思われます。

むしろ、腕に覚えがある者がそのまま武士になっているだけに、流血沙汰も珍しくなかったでしょう。

武家政権ができてからも、公家の間では主に関東の武士を「東夷(あずまえびす)」と下にみなしていました。

おそらくはそうした「価値感の統一という概念に乏しい」「しかもすぐ暴力沙汰になる」ところによって、そういうイメージが確定してしまったのでしょう。

まあ、公家は公家で血の気の多い人もいましたし、「もうちょっと何とかならなかったの?(´・ω・`)」とツッコミたくなるようなトラブルが起きてたりしますが……。

 

文化・教育レベルも上がっていく

武士たちのターニングポイントは、やはり鎌倉幕府の創設でした。

当時、「京都大番役」という京都警備に一定期間就く役目があり、これを経験したことによって、公家と結びつきを持ったり、京の文化に触れる武士が増えていったのです。

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これにより、進んだ文化がその武士の地元にもたらされるようになりました。

別の場所に伝われば、本場とまた違った進化を遂げていくものですよね。

また、血の穢れを基本的に忌む皇室や公家と違い、武士は直接人の生死に関係する立場であることから、仏教へ傾倒する者も少なくありませんでした。

有名どころでは、平家物語の「敦盛の最期」で平家の若武者・平敦盛を討った熊谷直実(くまがい なおざね)が、鎌倉時代に入ってから相続争いなどに疲れ、出家しています。

こういった影響で、武士の文化・教育レベルも上がっていきました。

実は、源平の戦いあたりまでの武士は身分が低かったこともあり、文字を読めない者も少なくありませんでした。

「文字を読める」というだけで珍しがられた人がいたくらいです。

しかし、支配者層になったことで、統治に必要な文書作成のため、または仏教の経典を読むため、「日常生活における読み書きの需要」が生じ、積極的に文字を学習する武士が増えたと思われます。
もちろん、江戸時代や現代と比べれば、識字率はずっと低かったでしょうけれども。

鎌倉幕府のほうでも、武士の文化レベル向上には力を入れていました。

具体的には、北条氏一門の北条実時が和書・漢書を集めて金沢文庫を創設したり、歴史書「吾妻鏡」を編纂したりしています。

また、御成敗式目の浸透と武士の統制のためにも、識字率の向上は必須だったでしょう。

こうして武士は皇室・公家に続く、日本の大きな一要素として成り立ちました。

同じ武士でも、鎌倉・室町・戦国・江戸時代でだいぶ違ってきますが、その辺はまたそれぞれの時代に見ていきたいと思います。


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【参考】
国史大辞典
蒲池明弘『「馬」が動かした日本史』(→amazon
武士/wikipedia

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