鳥羽上皇

鳥羽上皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

鳥羽上皇の院政時代に起きた静かに根深い遺恨「長男は実子なのか?」

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この時点で崇徳天皇はまだ10歳なので、実父である鳥羽上皇が院政を引き継ぎました。

やっと好きに政治へ取り組めるようになった鳥羽上皇は、白河法皇の方針を否定するような動きを見せ始めます。

政治的トラブルにより、宇治で隠居謹慎していた璋子の父であり前関白の「藤原忠実(ふじわら の ただざね)」を復帰させたり、その息子である藤原頼長を重用したり、その一方で璋子を遠ざけたり……。

また、白河法皇の側近(院の近臣)だった権中納言・藤原長実の娘である得子(美福門院)を女御に迎えて、後に近衛天皇となる皇子をもうけました。

そして近衛天皇に皇位を継がせるため、鳥羽上皇は崇徳天皇を強引に譲位させています。

このとき、近衛天皇は2歳。

とんでもない年齢で即位しておりますね。

 

崇徳上皇にはどうしても実権を与えたくない

同じ年に鳥羽上皇は落飾(らくしょく・仏門に入ること)して法皇となり、院政を続けます。

そして近衛天皇が現職のまま16歳の若さで崩御すると、今度はその異母兄にあたる雅仁親王(後白河天皇)を皇位につけさせました。

生まれ順と即位順がずれているのでわかりにくいですが、鳥羽法皇からするとこうなります。

長男・崇徳天皇(1123-1141年)

九男・近衛天皇(1141-1155年)

四男・後白河天皇(1155-1158年)

だいぶムチャクチャな継承順ですが、こうなったのもいくつかの要因がありました。

・近衛天皇に皇子がいなかった

・鳥羽法皇が自分の息子に皇位を継がせたかった

・何が何でも崇徳天皇の系統が続くことを避けたがった

また、院政には「当代の天皇が“直系の子や孫である場合”に、上皇・法皇が後見する」という建前がありました。

明文化されていたわけではなく、そういう慣例があった。

つまり、兄弟ではできない。

異母弟=年が近い近衛天皇や後白河天皇の代に、兄の崇徳上皇が院政を執るというのは難しいんですね。

となると鳥羽法皇が実権を握り続けるわけです。

 

なぜ鳥羽法皇は崇徳天皇を嫌った?

崇徳天皇は、我が子である重仁親王の立太子を夢見ていました。

そのため不本意な譲位の後も、後白河天皇が即位するまで望みを捨てず、歌会を開いて西行などの歌人と交流したり、詞花和歌集の編纂を命じたりして待ちます。

この時点では、重仁親王が鳥羽上皇の寵妃・美福門院の養子となっていたため、まったく不可能な話ではなかったのです。

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しかし、美福門院にはもう一人守仁親王(後の二条天皇)という養子がいて、その父が後白河天皇でした。

「存命中の父を飛ばして皇統が継がれる」というのは望ましくないため、後白河天皇が中継ぎのような形で即位した……という一面もあります。

というか、なぜ鳥羽法皇はそんなにも崇徳天皇を嫌ったのか?

実はその理由が不明でして。

あくまで俗説ですと「崇徳天皇が生まれる前から、母親である待賢門院・璋子は白河上皇に寵愛されていたため、鳥羽上皇は崇徳天皇を自分の子供ではないと思っていた」からだとされています。

鳥羽上皇が崇徳天皇を「叔父子」と呼んでいた……なんて話もあります。

 

崩御後に崇徳上皇の不満が噴出し、次の歴史へ……

事が事だけに正史扱いはされていない説ですが、他に取り立てて理由がないんですよね。

また、この話が当人たちとほぼ同時代~鎌倉初期にかけて成立した『古事談』という書物に出ていて、時代もさほど離れていないため、全く根拠がないわけでもなさそうなのがなんとも……。

もしかすると「鳥羽法皇は長子であるはずの崇徳天皇に異様に冷たい」ということから、想像を膨らませた人がいたのかもしれませんけど。

いずれにせよ、鳥羽法皇の崇徳天皇に対する冷遇が酷かったことは変わりありません。

途中までは少なくとも表向きつくろっていたのですけれども……。

かくして法皇の蒔いた種は、良くないカタチで残りました。

病によって保元元年(1156年)に鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇の不満が噴出。

それが【保元の乱】の要因の一つとなり、歴史に大きな動きをもたらすのです。

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【参考】
国史大辞典「鳥羽天皇」「崇徳天皇」

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