一条天皇

一条天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

史実の一条天皇はどんな人物だった?彰子や道長とはどんな関係を築いていたのか

かつては『枕草子』や『源氏物語』のファンにしか注目されないような存在だった一条天皇

今年、一気に事情が変化しました。

ご存知の通り、大河ドラマ『光る君へ』で非常に端正な顔立ちの塩野瑛久さんが演じ、難事を抱えて苦悩に苛まされる姿がお茶の間で話題となっています。

では実際の一条天皇はどんな人物だったのか?

藤原定子藤原彰子だけでなく、藤原道長藤原道隆、あるいは母の藤原詮子とは、どんな関係を築いていたのか?

意外と知られていない、一条天皇の生涯を振り返ってみましょう。

 

兼家の孫で詮子の息子

一条天皇は天元三年(980年)6月1日、円融天皇の第一皇子として生まれました。

母親は藤原詮子。

『光る君へ』では吉田羊さんが演じるパワフルな女性ですね。

藤原詮子/wikipediaより引用

ドラマでも描かれたように、彼女は藤原兼家と時姫の娘であり、同母きょうだいとして、道隆・道兼・道長の三兄弟と姉の超子がいます。

【父】藤原兼家

【母】藤原時姫

【息子】藤原道隆・藤原道兼・藤原道長

【娘】藤原超子(三条天皇の母)・藤原詮子(一条天皇の母)

つまり藤原兼家にとっては非常に都合の良い血筋の皇子が生まれたわけですが、ことはそう単純でもありませんでした。

その父である円融天皇が譲位して、次に第65代天皇になったのが、息子の一条天皇ではなく、甥の花山天皇だったのです。

花山天皇は、冷泉天皇の子であり、母親は藤原懐子です。

兼家と血縁がないわけではありませんが、それよりも懐子の弟である藤原義懐(花山天皇から見て叔父)のほうが頼れる――そんな姿がドラマでも描かれていましたね。

藤原義懐
藤原義懐はなぜ花山天皇と共に出家へ追い込まれた? 何か策は無かったのか?

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政権としては

花山天皇with藤原義懐その他

という構図で、永観2年(984年)9月に樹立。

同年、一条天皇も皇太子となり、第66代天皇の候補になっていたのですが、我慢出来ないのが藤原兼家です。

なんせ花山天皇は即位の時点で数え17歳とまだ若く、明日をも知れぬ56歳の兼家にとっては、一刻も早く退いてもらわねばならない状況。

しかし、このときは花山天皇の若さが裏目に出ました。

【寛和の変】です。

藤原忯子の死を嘆き悲嘆に暮れていたとされる花山天皇が藤原道兼にそそのかされ、寛和二年(986年)6月、突然、出家&譲位してしまったのです。

『光る君へ』でも第10回放送の序盤で大きな山場となりましたね。

花山天皇は寛和の変だけじゃない!道隆の子供たちとも激しく揉める波乱万丈の生涯

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ともかくこの一件で、一条天皇が第66代天皇として即位します。

 

まだ7歳で即位 皇太子は年上の居貞親王

一条天皇が即位したのは寛和2年6月23日(986年8月1日)のこと。

数えでまだ7歳という幼さであり、これを支える摂政は藤原兼家が務めます。

藤原兼家
藤原兼家の権力に妄執した生涯62年を史実から振り返る『光る君へ』段田安則

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兼家の抜け目ないのが、一条天皇の年長いとこ・居貞親王(のちの三条天皇)を皇太子にしたことでしょう。

居貞親王も兼家の娘・藤原超子の子であり、外孫となります。

【父】冷泉天皇

【母】藤原超子(藤原兼家の娘)

【子】居貞親王(のちの三条天皇)

居貞親王の同母弟は複数人いるので、兼家が長命であればあるほど多くの天皇に影響を与えることが可能な状態。

それだけでなく兼家は、娘の藤原綏子を孫の居貞親王に入内させるのです。

抜け目ないというか、血筋が大混乱というか。

平安時代のゴリ押し婚」というと藤原道長を連想する方が多いと思われますが、父親である兼家の野心はそれを上回るのではないでしょうか。

というか、道長が父のやり方を踏襲したというほうが相応しいですね。

藤原兼家/wikipediaより引用

兼家はこうして「幼帝の外祖父」という立場を利用して、息子である道隆・道兼・道長たちを急速に昇進させていきます。

現代であれば小学校低学年の一条天皇に、自分の意志を通せる力や意志などなかったことでしょう。

そこで気になるのが母親の藤原詮子かもしれません。

ドラマでは父親と対立姿勢を鮮明にしていましたが、実際のところ、息子の一条天皇が即位しても、大きな政治的関与は見られません。

行幸などの際に、幼い一条天皇と同じ輿に乗ったり、母親としての役割を果たしている印象です。

藤原詮子
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それよりも注目は、道長との関係でしょうか。このころ詮子の屋敷である東三条殿には道長も暮らしていました。

二人は後に政治的関係を強めていきますが、父親のやり方を間近で見ながら姉弟で結びつきを強めていったのではないでしょうか。

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