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【位階と官位】
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光源氏の息子・夕霧は、本来なら従四位下からでOKだが
この辺に関しては源氏物語の夕霧がわかりやすいでしょうか。
光源氏の息子・夕霧は六位から始まりました。
皇子である光源氏の子供なので、本来なら従四位下から始まってもいいし、光源氏の権威からすればもう少し上でもいいくらいです。
しかし、光源氏は親王宣下されておらず、順当にいけば夕霧は従五位下からのスタートが妥当となります。
結局、光源氏自身が「息子には生まれ持った身分に甘えず、学問を身に着けて自力で出世してほしい」と考えたため、夕霧はさらに下の六位から始まっています。光源氏、意外と教育パパですね。
作中には「六位」としか書かれていないので、正六位なのか従六位なのかよくわからないのですが……。
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ちなみに正六位下の場合、明経博士(みょうぎょうはかせ)と呼ばれる大学寮の教官がもらう位階と同等になります。
初任とほぼ同時に夕霧が大学寮に入ったことを考えると、「先生と生徒が身分的に同じ」という奇妙な状況だったことになりますね。
上流階級では、生徒のほうが身分が上というのも珍しくありませんけれども。
極位極官のため五摂家しか関白になれない
皇族以外の貴族は、概ね従五位下から始まり、家格や状況に応じて出世していきます。
最も影響を与えたのは、やはり家柄でした。
代々世襲している官職を元に、出世の限界が決められていて、これを【極位極官】といいます。
よく「道長の子孫である五摂家しか関白になれなかった」という話がありますが、これは五摂家の極位極官が正一位・関白だったからです。
そして、それ以外の家の極位極官は関白より下なので、関白にはなれない……というわけです。
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職業選択の自由がある現代からすると「生まれで頭打ちが決まるなんてヒドイ」と感じられるかもしれませんね。
でも、家族経営の会社や、総理大臣の就任順などを見ると、現代も似たような世界が……。
当時の社会でも「由緒正しい公家以外が極位極官を飛び越えることは好ましくない」とされていました。
例えば、戦国時代は皇室も公家もお財布事情が厳しかったので、多額の献金を行って位階や官職をもらう大名が多々いました。
しかし、公家が代々世襲してきたような官職や、親王がやるべき官職までは基本的にもらえていません。
官位や極位極官の制度は、公家たちの最後の砦というか、心の拠り所というべきものだったわけです。
教科書ではあまり語られませんが、こういうときの公家の粘り強さってスゴイですね。
とはいえ、何事にも例外はつきもの。この場合の数少ない例外が大内義隆です。
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大内義隆はあまりにも献金が多かったためか、従二位・兵部卿という大名屈指の高位に登っています。
兵部卿とは、兵部省=現代の防衛省のような仕事をしていた役所の長官(卿)のことです。
実はこれ、本来は親王が他の役職と兼務すべきものとされていました。
義隆については後半生が注目されがちですが、ノリノリだった頃の権勢のほどがうかがえます。
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また、戦国時代にやたらと官職名を名乗る大名がいたのは、朝廷に献金して任じてもらった場合と、勝手に自称したケースもあります。
両方とも「武家官位」と呼ぶのでややこしいですね。
前者の例は大内義隆、後者はありすぎて書ききれないほどありますが……有名どころだと、若い頃の織田信長が「上総介(かずさのすけ)」を名乗っていました。
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上総は親王任国といって、親王でなければ国主になれないとされ、他の地方とは別格の扱いを受けていたところです。
ここだけだと信長が野心満々だったようにも見えますね。
ただし、「介」は長官である「守(かみ)」の部下です。
さらに、親王任国の場合は親王自身が赴任することはなく、中央から介が派遣されていました。現地の最高責任者というわけです。
この辺を総合して考えると、「信長が上総介を名乗ったのは、次代の皇族の補佐を務めたいという意思表示」と解釈することもできるわけです。
まあ、信長が皇室をどう思っていたのかはまだ確定できていませんし、他の要素もたくさんあるので、断言はできないですけどね。
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