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【衣冠・束帯・直衣・狩衣】
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モテのためには服がめっちゃ大事!
直衣と狩衣についても、ポイントを押させておきましょう。
直衣の外見は、ほとんど衣冠と変わりません。
「多少くつろげるが、フォーマルさもある」という感じでしょうか。
最大の違いは、衣冠は身分によって色や模様が決まっていたのに対し、直衣にはそれがない点です。現代でいえば、オフィスカジュアルという感じですかね。
平安時代の公家は朝早く起きて出仕し、昼頃には退出するという生活がメインでした。
その後は、和歌などの芸を磨いたり、公家同士のお付き合いで家に招いたり招かれたり……といったパリピ的な集まりがあり、そこで衣装センスを問われたりしたのです。
特に女性にアプローチしたい場合は大変です。
・衣装の色や模様が季節にあっているか?
・色の取り合わせは美しいか?
なんてことが大きなポイントになったりする。
ドン小西じゃないんだから、とツッコミたくなる場面ですよね。
公家の女性が男性と会話するときは基本的に御簾越しです。
なので、衣装の色から人柄を推測するのがセオリーでした。
衣装の趣味が良ければ、
「今通ったあの方はきっと趣味の良い素敵な人だろうから、もし機会があったらお話ししてみたいわ」
となるわけです。
もちろんこの時代のことですから、身分の高い女性から手紙や歌を送るということはあまりなかったと思われます。
しかし、男性からすると「この辺に素敵な女性はいないだろうか? オシャレに気合いを入れて、あらかじめ好感度を上げておこう!」となるわけです。
現代だったら、細身スーツやジャケパンでまとめておけば、それなりに決まるから楽でしょうかね。
狩衣は文字通り「狩り」をするときに使っていた服で、現代では神職の方が日常着としています。
他の3つと比べると動きやすいため、時代が下るに従って公家の普段着になりました。源氏物語で光源氏がお忍びで出かけるシーンで、狩衣を着ていることがありますね。
もっと後の時代には公的な場面でも使えるようになり、武家の礼服にもなっています。
とはいえ、宮中へ行く際などは、やはり正装である束帯が使われました。
江戸幕府の要職にあった阿部正弘の肖像画がその一例ですね。
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「十二」というのは「たくさん重ね着」と捉える
女性の衣服は、やはり十二単と呼ばれる女房装束が有名でしょう。
といってもこれは正式な名称ではありません。
「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」という服装が高貴な女性に仕える女房に使われていたことからきています。
実際に12枚も重ね着していることはあまりなく、気候に合わせて五枚や七枚などに調整していたようです。
要は、この「十二」というのは、「たくさん重ね着してました」という意味で捉えた方がスッキリするかもしれませんね。
上記の通り、高貴な女性とその周りの女房は、あまり男性の前に顔を出しません。御簾に近づけば目鼻立ちくらいはわかったかもしれませんが、それよりも御簾の下から見える袖口の色合わせがアピールポイントになりました。
春夏秋冬それぞれの季節にふさわしいとされる組み合わせの他に、季節を問わず使えるパターンも決まっていました。
が、おそらくは自己流にアレンジする女性も少なくなかったと思われます。
というのも、「ある女性が服の色合わせに迷ってあれもこれも着込んでしまい、ろくに動けなくなってしまった」というような話が、平安時代には散見されるからです。
この時代の着物は掛け布団を兼ねるくらい大きなものですから、さもありなん……というやつです。
また、女房たち自身が男性とお近づきになりたい場合だけでなく、「ここの女房たちはセンスがいいな」と思ってもらうことにより、主人であるお姫様の評判を高めるという点も重要でした。
男女問わず、下々の者の振る舞いがその家の歌風や趣味の良さを表すとも考えられたからです。
これは、現代の我々が飲食店などに行ったとき、店員さんの接遇マナーや雰囲気で「また来よう」とか「系列の店にも行ってみよう」とか「二度と来るか!」と思うのと似たようなものですね。
他には「細長」という女性用の衣服があったとされています。
が、鎌倉時代以降に廃れてしまい、どんなものだったのかわからなくなってしまいました。だからこそ、十二単の存在が際立つ。
ただし、細長は『源氏物語』などにも出てくることから、少なくとも平安時代中期には日常的に着られていたはずです。今後の研究に期待しましょう。
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