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【清原元輔】
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当意即妙の天才型歌人
平安貴族の歪なところは、才能よりも血統が重視される点です。
清原元輔は政治家としてみれば、そこまで出世できません。自分より若い貴公子がグングン出世する様を見ているしかありません。
しかし歌人としては、天才型の素晴らしい人物といえます。
村上天皇の命令により選ばれた「梨壺の五人」に名を連ね、和歌の読解や編纂にあたりました。
「三十六歌仙」、「百人一首」にも選ばれました。
依頼されて詠むことも多く、社交的な性格であったこともうかがえます。
百人一首42番をみてみましょう。
契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは
約束したじゃないか。二人で涙で濡れた袖をしぼりながら、あの末の松山を波が超えないように、二人の仲も変わらずにいようと。
これは彼女が心変わりし、失恋してしまった男性顧客のために詠んだ歌でそうです。
どことなくユーモラスで、情熱だけでなくウィットにも富んでいて、確かに依頼されるだろうと思える軽妙さがあります。
こんな歌をササっと詠まれたら、この天才にはかなわないと周囲は納得したことでしょう。
元輔の愛娘として、清少納言が世に出たことも、うなずける話です。
清少納言の仕えた藤原定子も、元輔の娘だとして期待した歌を残しています。
あの清少納言ですら「あの名を汚すまい」と歌を詠みたがらなかったというのですから、実に偉大な歌人です。
しかも元輔は、インスピレーションがビビビと降ってくる天才型ですから、即興で詠むところも魅力的でした。
冠が脱げてお笑いトークにした逸話といい、当意即妙の才能があるのでしょう。
そんな父の姿を見てきた清少納言もそれは受け継いでいますし、周囲も期待するはず。
藤原定子のサロンは、そんな明るく会話が弾む、リア充空間でした。
陽キャだらけ、パリピが戯れているような、華やかな空気が漂っていたのです。
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秀才型漢籍教養の人、為時は暗くて重い
さて、そんな清原元輔と清少納言の父と娘に対し、藤原為時と紫式部はどうか。
為時の有名な漢詩には、こうあります。
苦学寒夜、紅涙沾袖
苦学の寒夜、紅涙袖を沾(うる)おす
除目春朝、蒼天在眼
除目(じもく)の春朝、蒼天眼(まなこ)に在り
私は寒い夜でも、血の涙で袖を濡らしつつ、勉学に励んできました。
待望の除目を迎えた春の朝、そこで目にしたのは、青空だけだなんて(名前がないことを嘆いているという意味)。
これを読んだ一条天皇は泣き、食事もろくに食べられなくなり、やっと為時は越前守に任じられたという伝説の一節です。
しかし、重い……。
受領にすら任じられず、金銭的にも苦しいうえに、芽が出ない恨みつらみが伝わってきます。
為時は確かに学識はあったものの、世渡りが下手で偏屈で「あいつ、空気読めないよな」と思われていたと伝わります。
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そんな不器用さゆえに苦労しているのに……娘である紫式部にも、そう思ってしまうことがあっても無理のないところ。
為時は漢籍が得意です。
漢籍がいくらできても、やはり出世には直結しないうえに、なんだか蘊蓄ばかり言っていてウザいんじゃないかと思われるところもある。
たとえばお正月。平安貴族は中国由来の「屠蘇」を飲みます。『三国志』でおなじみの、伝説の名医である華佗由来とされます。
そういう蘊蓄をウダウダ新年早々語り、仲間同士で「我々は知っていますな!」と言い合うことがお約束でして。
本人たちはこれぞ文人のプライドだと言いたいところでしょうが、外部からすれば「なんかウゼエ」となりそうな話です。
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