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【応天門の変】
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「応天門の変は藤原良房の陰謀だ」の見方が多数
上記の通り、一歩間違えれば天皇に危険が及ぶ犯行だったことから、結局、伴善男・伴中庸など主犯とされた五名は大逆罪=死刑に問われました。
しかし実際は、死罪より一段階、罪を減ぜられて流罪に。
それでも、これほどの重罪ですから、関係者も連座で処罰されています。
中には、小野篁(おののたかむら)の弟子・紀夏井(きのなつい)などもいました。
小野篁が流罪にされたのは頭良すぎだったから?「野狂」と呼ばれて
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このため、古くからの名族であった伴(大伴)氏と紀氏は大きく勢力を落とすことになります。
事件は一応、これにて落ち着きますが、なんだか変な感じがしませんか?
事の経緯や犯行があまりにもずさんな上、当時の政治的関係等がアレ過ぎるため、【応天門の変は藤原良房の陰謀だ】という見方が多数派なのです。
良房が疑われる2つの理由とは
主な理由は2つあります。
【まずは善男について】
伴氏(大伴氏)は古くからの名門ですが、彼自身は仁明天皇の時代から出世し始めた新興勢力といってもいい立場でした。
それが、源信をはじめとした嵯峨源氏や、勢力を広げ始めた藤原北家の良房にとっては面白いはずがありません。
そんなわけで、善男に悪気はないにせよ、敵が多かったのです。
【2つめは、良房の立場や縁戚関係について】
良房は当時、太政大臣で、実質的にはまだ幼年である清和天皇の摂政を兼任している状態でした。そして応天門の変の審議中、正式に摂政宣下されています。
また、善男の処罰後に姪の高子を入内させ、息子(養子)の藤原基経を中納言に特進させました。
ついでにいうと、清和天皇の母は良房の娘・明子であり、良房の妻は皇女として初めて降嫁した源潔姫(みなもと の きよひめ)です。
つまり、この時期の皇室はほとんど良房の縁者だったわけです。
藤原道長にも負けず劣らずの権勢……というか、道長が良房をお手本にしたのでしょう。
となると「良房が善男に罪を着せて排除し、藤原北家の立場を盤石にした」というのも、ありえない話ではないわけで。
結局、放火の真犯人が誰なのかは未だにわかっていません。
しかし、良房がこの事態を最大限に利用したことは確実です。
そのため「良房の陰謀だ」ともいわれるのですが、もし「おっ、政敵が自滅したぞ、ラッキー♪」くらいの感じで事態を利用しただけだったら、とんだ濡れ衣ですね。
はてさて真相は……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「応天門の変」
応天門の変/wikipedia