石山詣

石山寺縁起絵巻/国立国会図書館蔵

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』で注目の石山詣~平安貴族たちは実際どれだけ神仏参りをしていた?

大河ドラマ『光る君へ』の第15回放送で石山詣に出かけたまひろとさわ。

「出会い」を祈願して神仏にお参りする姿は、現代人とあまり変わらぬ共通の悩みを感じさせましたが、目的の石山寺に到着して驚いたのは藤原寧子と出会ったことでしょう。

藤原道綱母としてその名を知られる彼女。

紫式部と出会うなんていかにもドラマだな……と思われたかもしれませんが、実は道綱母は、日記『蜻蛉日記』の中で寺社参拝の話に何度も触れていて、彼女たちが偶然出会っても不思議ではないほどなのです。

当時の貴族にとって寺社はさほどに身近な存在であり、他ならぬ藤原道長も石山寺に娘の懐妊を祈願させていたという話もあります。

では一体、どんな風に神仏を頼り、参拝をしていたのか。

藤原道長&彰子、赤染衛門、道綱母の例を挙げて、振り返ってみましょう。

 

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藤原道長・彰子の場合

藤原道長が長女の藤原彰子一条天皇に入内させたとき、彼女はまだ満11歳でした。

いくら結婚が早い時代とはいえ、この時点で妊娠・出産できるほどの心身ではありません。

さすがの道長も当初は急ぎませんでしたが、彰子は思春期に入ってからもなかなか懐妊しませんでした。

当時の価値観では出産適齢期のはじまりくらいの感覚ですね。

また、懐妊したとしても”胎児が健康に育って出産までいけるかどうか”も大きな賭けという時代です。

そこで道長は、彰子が入内して数年後に

「昼夜を問わず観音に祈願せよ!」

と、石山寺の僧侶に命じています。

詳細は明らかにされていませんが、彰子の懐妊はもちろん、同時に次女・妍子の入内も祈願したものと思われます。

さらに道長は、金峯山寺(奈良県)に参詣した際にも、子守三所権現(現・吉野水分神社)に対して特に多く奉納しており、願いの強さがうかがえます。

彰子本人も、「不断経」という仏事を行っていました。数日間、絶やさずにお経を読み続けるもので、子授け祈願だったと思われます。

道長・彰子の父娘が必死になるのも無理はないでしょう。

なんせ彼らの眼の前には、藤原道隆と定子の父娘が皇子に恵まれながら長じるまで見守れずに亡くなった前例がありました。

できるだけ早く皇子を産んでもらわないと、外戚として権力を振るうことはできない。ゆえに強く祈願するのも自然なことでしょう。

結果として彰子は二人の皇子に恵まれ、妍子の入内も実現したのですから、道長もホクホクだったはず。

一方で、道長はその晩年で妍子や嬉子に先立たれており、神仏が彼を依怙贔屓していたわけでもないようです。

この辺は運命の悪戯というか、よくできているというか……「事実は小説より奇なり」という言葉を思い出してしまいます。

 

赤染衛門の場合

紫式部の先輩といえる女房の赤染衛門。

彼女は元々、彰子の母・源倫子の女房であったのは、『光る君へ』でもよく知られたところですね。

赤染衛門は、夫の大江匡衡(おおえのまさひら)との仲も良好で子供にも恵まれ、この時代の女性としてはかなりの成功者と言えるでしょう。

その子供の一人・挙周(たかちか)が和泉守に任じられると、任地で重い病にかかってしまいました。

そこで赤染衛門は住吉大社に以下の歌を献じ、我が子の回復を祈った……という話があります。

代はらんと 祈る命は 惜しからで さても別れん ことぞかなしき

【意訳】息子の身代わりになろうと思えばこの命は惜しくありませんが、息子と死に別れることは悲しいのです

すると挙周の病が治り、赤染衛門が身代わりになることもなく穏便に済んだ――というものですね。

話がうまく行き過ぎていて嘘くさいですが(すみません)、詞花和歌集の詞書として書かれていますので、全くの創作というわけではなさそうです。

住吉大社の祭神は、神功皇后に「新羅を征伐せよ、我らを祀れば平伏するだろう」との神託を下した住吉三神であり、神功皇后も祀られています。

神功皇后は三韓征伐の際、後の応神天皇を身ごもったまま渡海したとも言われていますので、母の真心が通じたものでしょうか。

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