藤原道隆

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

藤原道隆(光る君へ井浦新)の死後 道長と対峙する中関白家はどんな命運を辿るのか

平安時代の貴族と言えば藤原道長

しかし、大河ドラマ『光る君へ』をご覧の通り、当初から圧倒的ポジションにいたわけではなく、道長より先に関白になった兄がいます。

井浦新さんが演じていた藤原道隆ですね。

「中関白家」と呼ばれる系統で知られる道隆は、父である藤原兼家から跡目を受け継ぎ、娘の藤原定子を入内させるなどして大いに権勢を振るっていました。

ではなぜ、道長の名ばかりが後世に鳴り響いているのか。

父から権力を継承した道隆と中関白家は、一体その後どうなってしまうのか?

『光る君へ』でも重要な存在だった、藤原道隆の生涯を史実面から振り返ってみましょう。

 

藤原兼家と時姫の長男

藤原道隆は天暦七年(953年)、藤原兼家とその正室・時姫の長男として生まれました。

時姫は全部で5人の子女を産んでいて、並びは以下の通り。

父:藤原兼家
母:時姫

◆天暦七年(953年) 藤原道隆

◆天暦八年(954年)?藤原超子・冷泉天皇女御三条天皇生母

◆応和元年(961年) 藤原道兼

◆応和二年(962年) 藤原詮子(東三条院)・円融天皇女御・一条天皇生母

◆康保三年(966年) 藤原道長

最初に生まれた2人の道隆・超子と、3人目以降の道兼・詮子・道長は、なかなか歳の離れたきょうだいですね。

後述する通り、枕草子では”ユーモアのある明るい人物”という印象の道隆ですが、若い頃は控えめ、というか大人しい性格だったことを感じさせます。

大鏡』にこんな記録が残されています。

藤原兼家が、あるときボヤいた。

「四条大納言(藤原公任)は何にも優れている。私の息子たちは彼の陰さえ踏めないだろう」

すると道隆と道兼は「その通り」と頷き、道長だけが

「陰といわず、面を踏んでやりましょう」

と意気込んだ。

道長の胆の太さを伝えるエピソードとしてよく知られ、同時に若い頃の道隆が控えめか、少なくとも前に出る性格ではなかったことも伝えているのではないでしょうか。

むろん『大鏡』は後年に成立した書物ですので、そっくりそのままの出来事があったとは言い切れませんが。

 

妻は高階貴子

藤原道隆の若い頃は、エピソードもそう多くはありません。

その中で注目したいのが正室である高階貴子(たかしな の きし / たかこ)との話です。

彼女は円融天皇の時代に内侍として仕えていた女性でした。

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円融天皇の在位期間は安和二年~永観二年(969年~984年)で、天延二年(974年)には道隆と貴子の間に嫡子の藤原伊周(これちか)が生まれています。

ですので円融天皇が即位して数年のうちに、二人は夫婦関係になったようですね。

高階氏はあまり身分の高い家ではなく、道隆は彼女の性格や才気を愛していたとされます。

付き合い始めの頃に貴子が詠んだとされる歌は百人一首にも採られ、今日でもよく知られているものです。

忘れじの 行末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな

【意訳】あなたのお気持ちがどこまで続くのか、お約束はできないでしょう。それならいっそ、幸福な今日この日限りの命であったらいいと思います

和歌には「相手を想う気持ちと命を結びつけたもの」が多々あり、この歌は比較的平易でわかりやすいでしょうか。

残念なことに、道隆の返歌や反応は伝わっていません。

当時の貴族によくあることで、道隆は他の女性との間にも子供を多く授かっていますが、彼らは庶子として扱われ、あまり表舞台には登場しません。

決して身分が高いわけではない貴子の子が優遇されていました。

 

寛和の変

藤原道隆は貞元二年(977年)1月に昇殿を許されます。

そして、7年後の永観二年(984年)8月に円融天皇が花山天皇に譲位すると、従三位と東宮権大夫に任じられるなどして、順風に出世。

当時32歳ですので、まさしく働き盛りだった頃でしょう。

そんな折に父の藤原兼家が全盛期を迎えます。

キッカケは寛和二年(986年)6月に起きた【寛和の変】でした。

道隆の弟である藤原道兼が花山天皇を促して、退位させると同時に出家させ、懐仁親王(やすひとしんのう)が一条天皇として即位したのです。

これで道隆の父・藤原兼家は晴れて天皇の外祖父となり、権勢を振るうようになりました。

藤原兼家
藤原兼家の権力に妄執した生涯62年を史実から振り返る『光る君へ』段田安則

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恩恵をあずかったのは兼家だけではありません。子息たちも軒並み出世速度にブーストがかかり、超スピードで昇進を果たしてゆきます。

道隆の場合で見ますと、寛和二年7月5日~27日のわずか3週間の間に

権中納言、皇太后宮大夫、正三位、大納言、従二位、正二位

という異様なスピードで昇進・叙任されています。

さすがにやり過ぎのような気もしますけれども、この時点で兼家に異論を唱えられる者もいなかったのでしょう。

しかし兼家には限界が訪れていました。

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