長徳元年(995年)5月8日は藤原道兼の命日です。
「みちかね」と言えば、思い出されるでしょう。
大河ドラマ『光る君へ』で、まひろの母をいきなり背後から刺殺した人物であり、序盤は非常に暴力的だった三郎(藤原道長)の兄。
一体コイツは何なんだ?
完全にぶっ壊れとるやないか!
と当初は視聴者のほぼ全員が呆れたことでしょうが、その原因と思われる父の藤原兼家が亡くなると事態は一変。
兼家の跡を継げず当初は酒浸りになりつつも、弟・道長の助けもあって復職すると、憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとした人柄となり、兄の道隆が亡くなりついに関白となる――。
しかし、です。
その矢先に疫病で亡くなってしまい「七日関白」などとも言われてしまう……なんとも切なく哀しい存在でした。
そんな原道兼は、史実で一体どんな人物だったのか?
生涯を振り返ってみましょう。

『春日権現験記絵』の藤原道兼像/wikipediaより引用
兄弟同士で争う平安時代
ドラマの中でかなりイラついていた藤原道兼。
あれは完全に本人の資質が悪いからとも言い切れず、上級貴族といえど……いや上級貴族だからこそ、平安時代の男子は大変でした。
まず生まれた瞬間から兄弟はライバルです。
跡継ぎの座を巡って激しい政治闘争が繰り広げられるのは常であり、道兼の父である藤原兼家からして兄弟同士で出世を争っています。

藤原兼家/wikipediaより引用
その息子である道兼が、兄(藤原道隆)や弟(藤原道長)と鎬を削るのは必然の流れとも言えますが、比較として江戸時代の兄弟を見てみると、様子はかなり異なってきます。
例えば徳川秀忠と江(ごう)の夫婦には、長男の竹千代と、二男の国松という二人の男児がいました。
両親は二男を溺愛。跡継ぎに……と望むも、徳川家康が「長幼の序を重んじる」ように諭し、江戸時代以降は長男に家を継がせるのが定着してゆきます。
逆に言うと、それ以前は生年は必ずしも絶対ではなく、むしろ母の身分や器量が跡継ぎの決定に影響を与えました。
その点、道兼の生まれ自体は決して悪くはありません。
応和元年(961年)、藤原兼家と時姫の間に生誕。
父:藤原兼家
母:時姫
◆天暦七年(953年) 藤原道隆
◆天暦八年(954年)?藤原超子・冷泉天皇女御・三条天皇生母
◆応和元年(961年) 藤原道兼
◆応和二年(962年) 藤原詮子(東三条院)・円融天皇女御・一条天皇生母
◆康保三年(966年) 藤原道長
父の兼家には、他にも母が別の子供がいましたが、ドラマ『光る君へ』では時姫との間にできた子供だけが数えられ、母の異なる子は省略されているほどですね。
同じ父のもとに生まれても、その瞬間から跡継ぎ候補とされにくい子供もいたわけです。
藤原北家・兼家の三男
上記の通り、藤原道兼は兄の道隆に次いで二番目の男子。
同母弟には道長がいます。
二人の父である藤原兼家は野心家で、権力争いに勝つため色々と画策しますが、その最たる一手は娘の藤原詮子(せんし/あきこ)が産んだ子供が新たな天皇となることでした。

藤原詮子/wikipediaより引用
障害はいくつかあります。
まずは円融天皇です。
円融天皇の女御として娘の詮子を送りこむところまでは、様々な苦労を重ねて成功にこぎ着けた。待望の皇子・懐仁親王(やすひとしんのう)も生まれる。
こうなってくると一刻も早く懐仁親王に皇位を継いでもらいたい。
そのためには円融天皇の譲位が望ましい。
兼家は家に引きこもり、円融天皇をさんざん翻弄した挙句、譲位の確約を取り付けますが、円融天皇が定めた東宮は、詮子を母とする懐仁親王ではなく、師貞親王(もろさだしんのう)でした。
永観2年(984年)、円融天皇の譲位後、師貞親王が花山天皇として即位します。
兼家にとっては甚だ邪魔な存在。
早く自分の孫を天皇としたい!
とにかく若い花山天皇を追いやりたくて仕方がない――藤原兼家がそう企んでいることを、藤原為時という中流文人貴族はどこまで意識していたのか。
為時は花山天皇のもとで侍読(家庭教師)を務めていました。
『光る君へ』では“兼家のスパイ”という設定になっていましたが、そこはドラマならではの創作。
藤原為時が、紫式部の父であることは、むろん史実です。
花山天皇を唆す
兼家の息子たちも、こうした動きは当然のことながら気にします。
父の寵愛と政治権力を競う彼らにとって、手っ取り早い道筋はありました。
花山天皇を追いやるべし――。
花山天皇は、よくいえばナイーブ、悪くいえば情緒不安定だったとされます。最愛の女御・藤原忯子(しし/よしこ)を失って以来、鬱々たる日々を送っていました。
そこに蔵人である藤原道兼がつけ込みます。
仏の教えを説き「いっそ出家してはどうか?」と語るだけでなく、「そのときは私も供をする」とまで言われ、花山天皇も心を動かされます。
かくして寛和2年(986年)6月23日、丑の刻――道兼に手引きされ、花山天皇は密かに内裏から抜け出しました。

道兼によって出家に追い込まれた花山天皇を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用
道兼は花山天皇を元慶寺まで連れて行き、剃髪を促しながら、こう告げます。
「父に出家前の姿を見せてからここへ戻ります」
瞬間、花山天皇はハッとします。
騙されたっ!
しかし、時既に遅し。チームプレイを発揮した兼家一家は、長兄の道隆が東宮即位の準備をテキパキと進めてしまいます。
翌日、道兼にとっては従兄でありライバルにあたる藤原義懐(よしちか)と権左中弁・藤原惟成(これしげ/これなり)が元慶寺にやってきました。
そして剃髪した花山天皇を見ると「もはやこれまで……」と悟り、彼らも出家。
花山天皇とその側近たちは、かくして藤原兼家と息子たちによって次から次へと内裏から遠ざけられてゆくのです。
その中には、漢籍教養を誇りにする藤原為時もおりました。
つまり、劇中で兼家のスパイをさせられていた為時は、ここで酷い裏切りに遭うという設定でした。
「七日関白」
花山天皇が唆(そそのか)されて譲位し、懐仁親王が即位して一条天皇へ――。
一連の政変を【寛和の変】と言い、そのMVPは何といっても汚れ仕事を請け負った藤原道兼でした。
父の藤原兼家は我が子の功に報います。
道兼は同年7月に参議となったのを皮切りに、10月には従三位権中納言へ出世。
さらに11月に正三位、永延元年(987年)に従二位、そして永祚2年(989年)には正二位・権大納言と順調に昇進を重ねてゆきます。
しかし、正暦元年(990年)に父の兼家が病で没し、兄の藤原道隆が関白となると、道兼は一気にふてくされます。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用
全ては自分の汚れ仕事あってのものなのだ! なのになぜ美味しいところは兄に持っていかれてしまうのか!
あてつけのように遊び呆ける道兼ですが、道隆は何も弟を蹴落とそうとしていたわけではありません。
道兼は正暦同2年(991年)に内大臣となり、正暦5年(994年)には右大臣へ昇進するのです。
すると、にわかに風向きが変わり始めました。
当時は医学が未発達で、寿命の短い時代。長徳元年(995年)に藤原道隆は重病(飲水病=糖尿病)に伏せってしまうのです。
道隆は自身の嫡男・藤原伊周(これちか)を関白に望むものの果たされず、道兼が跡を継ぐことに。
粟田に山荘があった道兼は「粟田関白」と称され、いよいよ自分の時代が来たと内心小躍りしたことでしょう。
ところが、です。
なんという運命のいたずらなのか。道兼は念願の関白になって程なくして、流行病に倒れて没してしまうのです。
享年35。
あまりに短い関白の座ゆえ、道兼は「七日関白」という異名で呼ばれることになりました。
当時の価値観からするとこうなります。
花山天皇を陥れた祟りである――。
なるほど、祟りと指摘したいのは当時のいかにもな話ですが、実際はそう言い切れないでしょう。
そもそも花山天皇を出家させなければ、藤原兼家の息子たちが順当に出世できたかどうかは不明。
道兼の弟が大出世するのも妙な話です。
いうまでもなく藤原道長です。
最大のライバルとなる兄二人が病没したことにより、この道長は華々しい座に座ることとなったのであり、かなりの強運の持ち主といえます。
道長は、祟りなど微塵も感じなかったことでしょう。
道兼だけがワイルド系なのか?
藤原道兼は、色黒で醜かったとされています。
ただし、その真偽は不明。
花山天皇を唆した悪名から逆算されているのかもしれません。
当時はルッキズム全盛の時代ですから、もしも醜いと判定されていたならば、さぞかし本人は辛かったことでしょう。
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大河ドラマ『光る君へ』では、玉置玲央さんがいつも険しい顔をしていました。
兄の藤原道隆に劣等感があり、作劇としてはとてもよいアクセントになっている。
花山天皇を唆すという悪事が、「兄に勝ちたい!」というポイント稼ぎから衝き動かされていた。
しかし、身分の低い者を虫ケラ扱いし、平然と暴力を振るい、命すら奪うような惨状は……いささか違和感はありませんでしたか?
平安貴族、しかも当時の貴公子があれほど暴力的ってどうなのか。
『鎌倉殿の13人』の坂東武者じゃあるまいし……と思われたかもしれません。
しかし、そのギャップが視聴者の意識を矯正するのであれば、大いに意義があるかもしれません。
実のところ、当時の貴族は我々の想像以上に暴力的です。
暴力的だった当時の貴族
従者をぶん殴る。
邪魔者に石つぶてを投げつける。
平安京を破壊する。
好みの女性を襲おうと悪だくらみする。
政敵の暗殺計画を練る。
天皇の前ですら殴り合い、頭をむき出しにする(当時、頭をあらわにすることはパンツを脱がせるほど恥ずかしいこと)。
殺した相手の生首を持ち去る……。
そんな無法者な貴族でいいのか?と思うかもしれませんが、倫理観がまだまだ途上にある中世はその程度です。

平安京/wikipediaより引用
確かに“穢れ”を嫌う発想はありました。
しかし、あまりに激しい流血が現実にあったからこそ、そういう迷信によって抑制を図っていたとも言えるわけです。
『源氏物語』ではそんなに激しい殴り合いは無いのに?
というと、物語はあくまで理想像であり、生々しい現実がそのまま描かれるとは限りません。光源氏ですら、しばしば強引に関係を迫っているような状況はあるわけです。
夕顔が情事の際に頓死したら、従者の藤原惟光がテキパキと死体処理から葬儀まで済ませていて、死体の扱いに手慣れている感もある。
光源氏がそうであるというより、当時の貴族に経験則なり対処マニュアルなりもあったかもしれない。
だからこそ『光る君へ』で藤原道兼がちやはを背後から突き刺し、血飛沫に顔を染めたのは、我々見ている側の意識に変革を迫るチャレンジ精神を感じさせました。
★
キリリと矢を射て、打毬に興じる道長より、はるかにワイルドだった道兼。
バイオレンス上等貴公子第一号という重荷を背負い、堂々と登場しながら、玉置玲央さんのどこか屈折した、張り詰めた表情に視聴者は目を奪われる。
それもこれも全ては父への屈折した愛情から起きていたようで……実際は義理堅い一面があり、本来は真面目な好人物だったことを窺わせながら逝ってしまった。
それでも、本来なら道長の影に隠れてしまいがちな藤原道兼に強烈な光が当てられたことは意義深いものだったのではないでしょうか。
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【参考文献】
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
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他






