大河ドラマ『光る君へ』の序盤で、最もインパクトのあった人物と言えば玉置玲央さんが演じた藤原道兼でしょう。
貴公子の生まれのくせに終始イラついていて、何かとあれば弟の三郎(藤原道長)をいじめて憂さを晴らしている。
極めつけは、まひろ(紫式部)の母である“ちやは”を背後からぶっ刺し!
一体コイツは何なんだ?
完全にぶっ壊れとるやないか!
と視聴者のほぼ全員が呆れたことでしょうが、その原因とも思われる父の藤原兼家が亡くなると事態は一変。
兼家の跡を継げず当初は酒浸りになりつつも、弟・道長の助けもあって復職すると、憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとした人柄となり、兄の道隆が亡くなりついに関白となる――。
しかし、です。
その矢先に疫病で亡くなってしまい「七日関白」などとも言われてしまう……なんとも切なく哀しい存在。
長徳元年(995年)5月8日は史実における藤原道兼の命日です。
その生涯を振り返ってみましょう。
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兄弟同士で争う平安時代
ドラマの中でかなりイラついていた藤原道兼。
あれは完全に本人の資質が悪いからとも言い切れず、上級貴族といえど……いや上級貴族だからこそ、平安時代の男子は大変でした。
まず生まれた瞬間から兄弟はライバルです。
跡継ぎの座を巡って激しい政治闘争が繰り広げられるのは常であり、道兼の父である藤原兼家からして兄弟同士で出世を争っています。
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その息子である道兼が、兄(藤原道隆)や弟(藤原道長)と鎬を削るのは必然の流れとも言えますが、比較として江戸時代の兄弟を見てみると、様子はかなり異なってきます。
例えば徳川秀忠と江(ごう)の夫婦には、長男の竹千代と、二男の国松という二人の男児がいました。
両親は二男を溺愛。跡継ぎに……と望むも、徳川家康が「長幼の序を重んじる」ように諭し、江戸時代以降は長男に家を継がせるのが定着してゆきます。
逆に言うと、それ以前は生年は必ずしも絶対ではなく、むしろ母の身分や器量が跡継ぎの決定に影響を与えました。
その点、道兼の生まれ自体は決して悪くはありません。
応和元年(961年)、藤原兼家と時姫の間に生誕。
父:藤原兼家
母:時姫
◆天暦七年(953年) 藤原道隆
◆天暦八年(954年)?藤原超子・冷泉天皇女御・三条天皇生母
◆応和元年(961年) 藤原道兼
◆応和二年(962年) 藤原詮子(東三条院)・円融天皇女御・一条天皇生母
◆康保三年(966年) 藤原道長
父の兼家には、他にも母が別の子供がいましたが、ドラマ『光る君へ』では時姫との間にできた子供だけが数えられ、母の異なる子は省略されているほどですね。
同じ父のもとに生まれても、その瞬間から跡継ぎ候補とされにくい子供もいたわけです。
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藤原北家・兼家の三男
上記の通り、藤原道兼は兄の道隆に次いで二番目の男子。
同母弟には道長がいます。
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二人の父である藤原兼家は野心家で、権力争いに勝つため色々と画策しますが、その最たる一手は娘の藤原詮子(せんし/あきこ)が産んだ子供が新たな天皇となることでした。
障害はいくつかあります。
まずは円融天皇です。
円融天皇の女御として娘の詮子を送りこむところまでは、様々な苦労を重ねて成功にこぎ着けた。待望の皇子・懐仁親王(やすひとしんのう)も生まれる。
こうなってくると一刻も早く懐仁親王に皇位を継いでもらいたい。
そのためには円融天皇の譲位が望ましい。
兼家は家に引きこもり、円融天皇をさんざん翻弄した挙句、譲位の確約を取り付けますが、円融天皇が定めた東宮は、詮子を母とする懐仁親王ではなく、師貞親王(もろさだしんのう)でした。
永観2年(984年)、円融天皇の譲位後、師貞親王が花山天皇として即位します。
兼家にとっては甚だ邪魔な存在。
早く自分の孫を天皇としたい!
とにかく若い花山天皇を追いやりたくて仕方がない――藤原兼家がそう企んでいることを、藤原為時という中流文人貴族はどこまで意識していたのか。
為時は花山天皇のもとで侍読(家庭教師)を務めていました。
『光る君へ』では“兼家のスパイ”という設定になっていましたが、そこはドラマならではの創作。
藤原為時が、紫式部の父であることは、むろん史実です。
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