こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【藤原道兼】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
道兼だけがワイルド系なのか?
藤原道兼は、色黒で醜かったとされています。
ただし、その真偽は不明。
花山天皇を唆した悪名から逆算されているのかもしれません。
当時はルッキズム全盛の時代ですから、もしも醜いと判定されていたならば、さぞかし本人は辛かったことでしょう。
-
なぜ鎌倉時代はイケメン武士が重用されたのか 室町時代以降は何が重視された?
続きを見る
大河ドラマ『光る君へ』では、玉置玲央さんがいつも険しい顔をしていました。
兄の藤原道隆に劣等感があり、作劇としてはとてもよいアクセントになっている。
花山天皇を唆すという悪事が、「兄に勝ちたい!」というポイント稼ぎから衝き動かされていた。
しかし、身分の低い者を虫ケラ扱いし、平然と暴力を振るい、命すら奪うような惨状は……いささか違和感はありませんでしたか?
平安貴族、しかも当時の貴公子があれほど暴力的ってどうなのか。
『鎌倉殿の13人』の坂東武者じゃあるまいし……と思われたかもしれません。
しかし、そのギャップが視聴者の意識を矯正するのであれば、大いに意義があるかもしれません。
実のところ、当時の貴族は我々の想像以上に暴力的です。
暴力的だった当時の貴族
従者をぶん殴る。
邪魔者に石つぶてを投げつける。
平安京を破壊する。
好みの女性を襲おうと悪だくらみする。
政敵の暗殺計画を練る。
天皇の前ですら殴り合い、頭をむき出しにする(当時、頭をあらわにすることはパンツを脱がせるほど恥ずかしいこと)。
殺した相手の生首を持ち去る……。
そんな無法者な貴族でいいのか?と思うかもしれませんが、倫理観がまだまだ途上にある中世はその程度です。

平安京/wikipediaより引用
確かに“穢れ”を嫌う発想はありました。
しかし、あまりに激しい流血が現実にあったからこそ、そういう迷信によって抑制を図っていたとも言えるわけです。
『源氏物語』ではそんなに激しい殴り合いは無いのに?
というと、物語はあくまで理想像であり、生々しい現実がそのまま描かれるとは限りません。光源氏ですら、しばしば強引に関係を迫っているような状況はあるわけです。
夕顔が情事の際に頓死したら、従者の藤原惟光がテキパキと死体処理から葬儀まで済ませていて、死体の扱いに手慣れている感もある。
光源氏がそうであるというより、当時の貴族に経験則なり対処マニュアルなりもあったかもしれない。
だからこそ『光る君へ』で藤原道兼がちやはを背後から突き刺し、血飛沫に顔を染めたのは、我々見ている側の意識に変革を迫るチャレンジ精神を感じさせました。
★
キリリと矢を射て、打毬に興じる道長より、はるかにワイルドだった道兼。
バイオレンス上等貴公子第一号という重荷を背負い、堂々と登場しながら、玉置玲央さんのどこか屈折した、張り詰めた表情に視聴者は目を奪われる。
それもこれも全ては父への屈折した愛情から起きていたようで……実際は義理堅い一面があり、本来は真面目な好人物だったことを窺わせながら逝ってしまった。
それでも、本来なら道長の影に隠れてしまいがちな藤原道兼に強烈な光が当てられたことは意義深いものだったのではないでしょうか。
あわせて読みたい関連記事
-
藤原兼家の権力に妄執した生涯62年を史実から振り返る『光る君へ』段田安則
続きを見る
-
なぜ藤原道隆は次代の伊周へ権力を移譲できなかったのか「中関白家」の迷走
続きを見る
-
藤原道長は出世の見込み薄い五男だった なのになぜ最強の権力者になれたのか
続きを見る
-
道隆・道兼・道長の母「藤原時姫」低き身分から如何にして兼家嫡妻の座を掴んだか
続きを見る
-
隆家との因縁バチバチな花山天皇~史実でも『光る君へ』のように型破りだった?
続きを見る
-
史実の藤原伊周は長徳の変で左遷され その後どのような生涯を過ごしたのか
続きを見る
-
平安時代の民がゴミのようだ「地震 雷 火事 疫病」に平安貴族たちも為す術なし
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
大塚ひかり『源氏の男はみんなサイテー』(→amazon)
他