藤原道隆

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

藤原道隆(光る君へ井浦新)の死後 道長と対峙する中関白家はどんな命運を辿るのか

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一条天皇の元服と同時に定子が入内

正暦元年(990年)正月に一条天皇の元服に際し、父の藤原兼家は加冠役を務めました。

そしてその直後から、病気を理由として、関白と藤氏長者を藤原道隆に譲ります。

跡を継いだ道隆は、一条天皇の元服と同時に長女の藤原定子を入内させ、翌月には女御にしていたため、これで二人の関係がうまくいけば、道隆も父の兼家と同じポジションになれる。

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しかし、さらに権力を確定させたいのか、道隆は、同年10月にかなりの無茶振りをやります。

娘の定子を中宮としたのです。

当時は、

太皇太后:昌子内親王(朱雀天皇皇女・冷泉天皇中宮)

皇太后 :藤原詮子円融天皇女御・一条天皇生母)

中宮  :藤原遵子(円融天皇中宮)

の三人が「后(きさき)」の地位にあり、これ以上増やすことはできないと考えられていました。

こういった身位は、基本的に当人が亡くなるまで保たれることになっていたからです。

そこで道隆は、皇后の別称だった「中宮」を新たな后の名前として切り離し、元々中宮だった遵子を皇后にさせ、定子を中宮に据えたのです。

後にこの手法は藤原道長にも利用され、そのときは定子が中宮から皇后となり、道長の娘である藤原彰子が中宮になっています。

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道隆が失敗したのは、弟であり政敵でもある道長を中宮大夫にしたことでしょう。

この時点で、道長の長女・彰子はまだ数え3歳で、入内させることはできません。

つまりは道隆と定子が我が世の春を謳歌しようとしているのを助けなければならない立場に置かれたわけです。

道隆としては悪意はなかったのかもしれませんが、道長は決して愉快ではなかったはず。

道長に娘がいるのを知らなかったはずはありませんので……。

 

息子の伊周と隆家が増長し……

正暦二年(991年)になると道隆の長男・藤原伊周(これちか)が参議となり、その後、権中納言→権大納言と出世していきました。

当時の伊周はまだ19歳。

現代とは年齢の感覚が違うとはいえ、まだまだ若造が閣僚入りしたようなもので……反感を買わないわけがありません。

しかもこの辺りから伊周と隆家(母・貴子にとっては次男)の増長した振る舞いが増え、ますます貴族社会で目立っていくようになりました。

明言されてはいないながら、藤原道長も内心は面白くなかったでしょう。

ただし後宮では、ユーモアのある道隆一家の評判は良かったようで、定子に仕えていた清少納言は、枕草子の中でたびたび道隆や伊周について記しています。

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例えば、正暦五年(994年)の道隆が法興院積善寺で一切経供養をした頃の話。

道隆が、娘の定子に対し、

「大勢の美人を側に仕えさせて眺められるとはうらやましい」

「私は宮(定子のこと)がお生まれになってから忠勤に励んできたが、まだお着物一枚すら頂戴したことがないのだよ」

と、自分の娘に対して大仰に振る舞い、女房たちの笑いを誘いました。

翌長徳元年(995年)1月には、次女の原子(内御匣殿)が皇太子・居貞親王(三条天皇)に入内。

うまくいけば三条天皇系の外祖父という地位も手に入れられるポジションを確立しました。

原子が入内してまもなくの長徳元年(995年)2月、定子の御殿にやってきた道隆と貴子の様子も、枕草子に書かれています。

道隆が定子のそばで御簾の向こうに控えている清少納言の衣装の裾を見て、

「あれは誰かね」

と尋ねたり、

定子や原子に食事が用意されるのを見て、

「このじいさんばあさんにも、せめておこぼれをくだされ」

と、おどけてみせています。

枕草子で道隆が登場する場面は、ユーモアのある温かい家庭といった印象で描かれていることが多いんですね。

なので政治的な面での道隆一家をあまりご存知ない方もいるかもしれません。

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