平安時代の庶民や下級役人

画像はイメージです(東宮高陽院行啓/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

平安時代の庶民や下級役人はどんなトラブルに見舞われた?公任が残した生々しい記録

川に浮かぶ疫病の犠牲者や、カラスに突かれてしまう人間の遺体など。

大河ドラマ『光る君へ』の描写が「現実を包み隠さない」として話題ですが、それでもどうしたって捉えきれないのが庶民や下級役人のトラブルや動向でしょう。

彼らの間では、花山院のように濃キャラの人物が注目されることもなければ、【長徳の変】のようにダイナミックな政変も起きない。

だからといって「そこで何も起きてなかったの?」と問われれば決してそんなワケもなく、例えば藤原公任がメモ書きのように残していた記録からも、当時の生々しい記録が蘇ってきます。

では、いったい庶民や下級役人の間では、実際にどんなトラブルが起きていたのか?

公任の残した『三条家本北山抄裏文書』から振り返ってみましょう。

※『三条家本北山抄裏文書』とは……藤原公任が検非違使庁の書類を裏紙として使っていたものが、思わぬ形で現在にまで残されたもの(リアリティが高い)

 

長徳三年(997年)同族同士の襲撃事件

河内の豪族・美努氏(みの)の内輪揉めといえる出来事です。

美努氏は御野縣主神社(みのあがたぬしじんじゃ)の祭神を祖先とする一族で、現在の大阪府八尾市にいました。

そこで起きたのが、前淡路掾(じょう・国司の階級)である美努兼倫(かねとも)が、同族の美努公忠(きみただ)に襲撃されるという事件です。

深夜、公忠はゴロツキを率いて兼倫の屋敷を襲撃。

一家の者と使用人たちを縛り上げ、家財を一切合切盗んでいったのです。

そのままだったら兼倫たちの命も危うかったと思われますが、幸い近所の人々が異変を察知し、この地に居合わせた河内守の郎党・源訪が公忠に説明を求めます。

すると公忠一派は、その場から逃げ出し、兼倫らは命拾いしたのでした。

兼倫一家は、価値のある物も無い物も根こそぎ持っていかれたため、その後の生活にはだいぶ困ったことでしょう。

当然、兼倫は、後日この件を検非違使庁へ訴えます。

すると、公忠らは以前から「太皇太后職・美努真遠の命」として兼倫らの殺害を狙っていたそうで、その噂の真偽を確かめるため、検非違使が調査する予定だったというではないですか。

結局、検非違使が来る直前に、公忠が事件を起こしてしまったんですね。

なお、太皇太后職とは、その名の通り太皇太后である女性に仕える役職です。

当時の太皇太后は昌子内親王であり、朱雀天皇の皇女で、冷泉天皇中宮だった方。

冷泉天皇が奇行により早々に退位したこともあり、実子はなく、比較的小ぢんまりとした暮らしだったと思われます。

女性の記録が残りにくい時代ですから、この事件当時、彼女がどうやって暮らしていたか、という詳細な記録はありません。

後述しますが、担当者の横領やその他悪事によって、貴い身分の方への税が滞ることも珍しくない時代です。

美努真遠もその辺が動機だったのではないでしょうか。

ちなみに「掾(じょう)」は各国を納める役人の中で、上から三番目の官職

トップではないけれども地方のお偉いさんの一人、といった感じです。

 

長保三年(999年)他人の田んぼを刈り取る

畿内のとある場所で、強盗のお手本みたいな事件が起きました。

「悪漢の一団が他人の田んぼを勝手に刈り取った上、止めようとした人々に怪我をさせる」

税の基本は米です。

実質、お金みたいなもので、それだけに稲作を巡ってのトラブルは常態化しており、特に当時は田堵(国有農地の管理・耕作の請負人)同士のトラブルが頻発しており、これもその一つだと考えられています。

田堵は農具や種籾を自力で調達できる経済力を持っていました。

しかし、困窮していた他の田堵に襲われたり、上役同士の対立によって敵方の田堵を襲うこともあったとか。

「手元にないから暴力に訴えてでもよそから取ってくる」

「上役に気に入られるためによそから攻撃された」

殺伐とした中世の思考回路って本当に恐ろしいですね。まぁ、現代でもたまにいますが……。

 

長徳三年(997年)権利書を奪われて

山城国紀伊郡の物部茂興という人物が、借りた米を返済しないまま亡くなってしまいました。

そこで貸主方は茂興の妻・内蔵貴子へ返済を迫ったのですが、強盗まがいの乱暴なやり方だったため事件扱いとなったものです。

取り立て人は、貴子らの家に押し入り、居合わせた貴子の弟で僧侶の覚珍が

「借用書を提示していただけませんか」

と言ったにもかかわらず、家と土地の権利書を強引に取り上げていってしまったといいます。

権利書を再発行する仕組みもありましたが、今回の場合は、取り立て人側に再発行権があったため、にっちもさっちもいかなかったのだとか。

同年5月20日、貴子がこの件を書面で検非違使庁に訴えたため、歴史に残ることになりました。

この件は、権利書を取り上げられてはいるけれど、刃傷沙汰にまでは至ってないので、まだマシな方でしょうか。

お金に関係する中でも“横領”の類になると、かなりタチが悪くなってきます。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-飛鳥・奈良・平安, 光る君へ
-

×