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【平安時代の庶民や下級役人のトラブル】
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長徳四年(996年)110人分の米
播磨掾であり摂津守の郎党を兼ねていた高向国明という人物が、私宅の財産を差し押さえられました。
建物と財産の中身が凄まじいです。
・居住用の家
・土屋(土間の家)110石の米、160籠の炭、8枚の長筵(ながむしろ)
・倉代(床が敷いてある倉庫)6枚の長筵、20枚の紙
目を引くのは、なんといっても「110石の米」でしょう。
1石とは、どれだけの分量なのか?
というと、大人一人が一年で食べる米の量なので、単純計算110人✕1年分の食料となります。
私腹を肥やすどころか腹が弾けるレベルですね。
当時は貨幣が十分な役割を果たしておらず、米や布、紙などで物々交換することもあったため、蓄財と考えれば不思議ではないのですが……。
当時の技術や衛生環境でこれほどの米を貯蔵していても、傷んでしまって価値が下がる可能性も高そうです。
何人がかりで押収したのか。どのように運んだのか。
その辺の詳細な記録は不明ですが、かなりの時間や人手を要したことは間違いないでしょうね。
もう一件、横領にまつわる事件をご紹介しましょう。
といってもこちらは少々毛色が異なり、「疑われたけど無罪だった」という話です。
長徳二年(996年)以降
当時、近江から皇后・藤原遵子への米の貢納が遅れていました。
放っておく訳にはいかないので、皇后宮大夫を兼任していた遵子の弟・藤原公任が近江介・源則忠に使者を遣わし、米を納めるよう求めます。
当時は、朝廷や后妃たちへ納める税をちょろまかして私腹を肥やす者が多々いたため、則忠もそうではないか?と疑われたのです。
しかし則忠は、近江を任せていた郎党に税を持ち逃げされてしまっており、本当に手元不如意になっていました。
にもかかわらず公任の使者は事情を聞かずに則忠の屋敷を荒らしまわり、これを恥辱と感じた則忠は書面で訴えます。
「あのような者たちに無礼を働かれるのは許しがたい」
無実なのに家を荒らされたのですから、そりゃあ上役に文句の一つでも言いたくなるものでしょう。
しかも、源則忠は醍醐源氏の一人です。
本来は臣下筋の藤原氏(の更に下の者)に乱暴されれば、二重三重に腹が立ったであろうことは想像に難くありません。
則忠に落ち度があるとすれば、郎党に裏切られた時点で、報告と検非違使への協力を求めなかったことでしょうか。
「米が遅れて申し訳ありません。奪われた米を取り戻すため、検非違使を遣わしていただけませんか」
といった具合で証拠を残しておけば、どうにかなったのでは……。
★
普段から余っているわけじゃないのでしょう。上級貴族と異なり、庶民や下級役人のトラブルは、やはり食料絡みのものが多いです。
結局、人は不正をしてでも富を得たい、暴力を使ってでも解決したい、と願う生き物なのでしょうか。
1000年経っても変わらない傾向に、ある意味、
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長月 七紀・記
【参考】
繁田 信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』(→amazon)
他