元慶四年(880年)5月28日は、在原業平が亡くなった日です。
伝説的なイケメンかつ歌人(六歌仙・三十六歌仙の一人)。
そんな当時のモテ男に欠かせない二大要素を持っていた人であり、また『伊勢物語』のモデルとも称される御仁ですね。
同物語は、あの『源氏物語』にも強く影響を与えたとされる最古の歌物語なわけですが、今回は業平の人生を振り返りながら、物語の成立にも思いを馳せてみましょう。
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事件で変わった天皇の系統 業平の人生も左右する
天長二年(825年)に生まれた在原業平の前半生は、苦労の連続でした。
彼の父は平城天皇の第一皇子・阿保親王(あぼしんのう)で、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王。
つまり業平は、父方は平城天皇の孫かつ桓武天皇の曾孫という血筋であり、母は桓武天皇の孫という、この時代ならではのサラブレッドです。
が、我々現代人にあまりそのイメージはないかもしれませんね。
実は彼の運命は、彼の生誕前に起きた【薬子の変(810年)】で大きく変わっておりました。
この変は、一言で言えば
平城天皇
vs
嵯峨天皇
の内乱未遂事件です。
平城天皇の愛妾である藤原薬子が原因となって争いが起き、その結果、天皇の系譜が嵯峨天皇系に移ったため、業平の父である阿保親王の意向で、在原姓を名乗るように。
誕生の翌年に臣籍降下していました。
業平は「在五中将」とか「在五」などと称されましたが、在原氏の五男だからとされます。
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父の阿保親王も文武の才に恵まれていた
臣籍降下したのは、血筋を理由に権力争いに担ぎ上げられたり、逆にお咎めを被ることがないように……という思いやりだったのでしょう。
いかにこの時代の皇族なれど、有力な後ろ盾がなければ生活が厳しくなることは珍しくありませんでした。
それならば臣下に降って自ら権力や名分を放棄したほうがいい、という判断もありえます。
また、阿保親王は謙虚で控えめ、文武と弾き語りの才があり、腕っ節も強いというかなりチートな人でした。
業平も当時から和歌の才や鷹狩の名手として知られていたので、父親に似たのでしょうね。
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業平だけでなく、その息子や孫も歌才に恵まれていたとされますし、やはり才能は血筋によって伝わるもののようです。
ただし、阿保親王も伊都内親王も「美貌」だったという記録は特にないようなので、なぜ業平が伝説的なイケメン(『三代実録』に記されている)といわれるようになったのかは謎ですが……。
まぁ、いい感じに遺伝子が噛み合ったんでしょう。
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