と、もう一つが天慶4年(941年)6月20日に当人が討たれて終息した【藤原純友の乱】でしょう。
読み方はそのまんま「ふじわら の すみとも の らん」でして、平将門の事件と併せて【承平・天慶の乱】とも呼ばれます。こちらは「じょうへい・てんぎょう の らん」と読みます。
セットで語られるからには何らかの関係性がありそうですよね。
実際「首謀者である平将門と藤原純友は、比叡山で反乱を共謀し、国家転覆を企てた」なんて話もありますけれども、そこまで大きな話ではなく単に暴れるタイミングを合わせたようです。
それにしても純友は藤原道長も輩出した藤原北家の出自です。
それがなぜこんなことに?
彼の生い立ちから見ていきましょう。
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エリート家系の生まれながら幼くして父を亡くし
前述の通り、藤原純友は、天下の藤原北家一員として生まれました。
しかし、早くに父を亡くしたために出世の見込みがほぼ消えてしまいます。
それでも伊予の掾(じょう・やや身分の低い国司)に任じられ、当初は真面目に仕事をしていました。
国司につきましては、大河ドラマ『光る君へ』で割と濃く描写されていましたように、上から
守(かみ)
介(すけ)
掾(じょう)
目(さかん)
の四つの職に分かれ、現地へ出向く“受領”は、国内で上がる財を管理できることから「懐を肥やす」場に使われていました。
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純友も、そうした不正の温床に影響されたのか。
天慶二年(939年)、突如として伊予守・紀淑人(きのよしと / きのよしひと)に反旗を翻し、瀬戸内海の海賊を従えて暴れだしてしまいます。
瀬戸内海といえば、遣唐使の旅程にも使われた、海運の大動脈ともいえる海域です。
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戦国時代に織田信長とモメていた石山本願寺が、毛利元就でお馴染みの毛利家から、瀬戸内海を通じて物資を運搬していた――と言えば何となくイメージも湧くでしょうか。
平安時代にも、西日本からの物資や税の多くが、瀬戸内海を使って運ばれていました。
逆にいえば、瀬戸内海を握ってしまえば、朝廷の力を削ぐことも、自分たちだけ豊かになることもできるわけです。
そのため、納税や工事への参加から逃れたいと考えた農民たちが、地元の資産家と結びついて海賊化してしまいました。
海賊の親分に収まり更に暴れ回り
当然、朝廷は税収確保のために、こういった海賊を取り締まるようになります。
本来ならば、藤原純友も取り締まる側なのですが……何を思ったのか、海賊の親分に収まってさらに暴れ始めてしまうのです。
なんちゅう破天荒貴族や!
そう思われるかもしれませんが、藤原家のみならず皇族においても中枢の要職に就けず、地方へ下がって略奪行為をする連中は跡を絶たなかったと言います。
国衙(国司の役所が置かれたところ)が襲われたり。
中央への納税物が分捕られたり。
歴史の授業ではまず習いませんが、地方政治の乱れっぷりは相当なもので、藤原純友に限らず、同様のトラブルは頻繁に起きていました。
そんな調子ですから、当然、純友も聞く耳など持っちゃいません。
国司・紀淑人に懐柔され、それが効いたのもほんの数ヶ月。
同年(939年)12月には、摂津国須岐駅で、今度は備前介・藤原子高を襲撃しています。
東国でも乱が起きていた上、瀬戸内海や摂津は京都から近距離ですから、当然、朝廷は大いに焦りました。
あらゆる寺社に賊徒平定の祈願をさせながら、京都市中の警備を強める中央政府。
こういうとき真っ先にお祈りを始めるあたりが、まさに古代という感じがしますね。
といっても、幕末に黒船が来たときも朝廷では祈祷をしていましたので、「ずっと変わっていない」というほうが正しいかもしれません。
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