永承6年(1051年)1月8日は敦明親王の命日です。
以前なら「いったい誰?」と即座に思われたであろうこの人物も大河ドラマ『光る君へ』で一気に名前が売れましたね。
居貞親王(三条天皇)の息子であり、ドラマの中では、道長の次女でパリピな藤原妍子から
「年寄りの居貞親王(三条天皇)より、敦明親王に嫁いだほうがいい」
という爆弾発言をされて、注目されたのです。
しかし、もしも妍子が敦明親王に嫁いでいたら、さらなる波乱となること必至だったでしょう。
というのも史実における三条天皇は、藤原道長からの圧迫を受け続けて譲位に至り、さらには敦明親王も皇太子の座(ひいては天皇の座)を譲らされる事態に陥っているのです。
いったい何がどうして、この父子はそんな目に遭うことになったのか?
三条天皇の詳細については以下の記事に譲り、
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三条天皇が道長と一条天皇の陰で過ごした生涯|無念は孫の代で晴らす
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本稿では敦明親王の生涯を振り返ってみましょう。
道長の全盛期 母の父は藤原顕光だった
「親王」というのは、天皇の息子のことをいいます。
敦明親王もその名の通り、三条天皇の息子として(994年)に生誕。
厳密にいえば、敦明親王が生まれたときの三条天皇はまだ居貞親王であり、生誕から17年後の寛弘八年(1011年)6月13日に即位しています。
敦明親王の母は藤原師尹の孫で、三条天皇の皇后である藤原娍子でした。
皇后から生まれた皇子ですから、従来であれば順当に皇太子となり、皇位を継いでいくはずです。
しかし、当時は藤原道長の全盛期。
母親が道長の縁者でなければ、皇族が本来の権力を振るうことは出来ません。
一応、長保二年(1000年)12月に敦明親王の読書始が道長の東三条邸で行われるなど、関係が悪くなかったであろう気配もありますが……寛弘三年(1006年)に元服と結婚をし、その相手は藤原顕光の娘・藤原延子でした。

藤原顕光/wikipediaより引用
顕光は道長の父・藤原兼家の兄の子ですので、道長とはいとこ同士です。
大きなグループで見ると「延子も道長の同族」でありながら、この時代の藤原氏はなまじ血縁が近いと政争の相手にしかなりません。
顕光の一族から妻を迎えても、道長の庇護は得られませんでした。
むろん、顕光も一応の出世はしておりますが、いかんせんこの時代は道長が抜きん出ていました。
こういった背景により、寛弘八年(1011年)に三条天皇が即位したとき、敦明親王は親王宣下を受けたものの、皇太子にはなれなかったのです。
では皇太子になったのは?
道長の孫である敦成親王(後の後一条天皇)です。力関係があからさまに出ていますね。
源政職を拉致して暴行
皇太子にはなれずとも、一定の役職は得られる――敦明親王は「式部卿」の官職を受けて社会人デビューしました。
式部卿は、式部省という役所の長官で、同省は文官に関する仕事を司っていました。
となると、なんとなく大人しそうな感じの仕事に見えますが……敦明親王は中々激しい気性の持ち主だったことが窺えます。
長和三年(1014年)のことです。
敦明親王は従者に命じて、加賀守・源政職を拉致し、妻の屋敷に連行の上で暴行を加えるという恐ろしい事件を起こすのです。
屋敷に連れて行く際は、わざわざ自分の足で歩かせ、さらし者にしたといいますが、これには一応、理由もありました。
当時、源政職は敦明親王の異母妹・禎子内親王に借金をしており、さらにそれを滞納していました。
自由に出歩けず取り立てができない妹に代わって、敦明親王が政職を引っ立てたのではないか?と考えられています。
それにしてもやり方が荒っぽすぎたため、公家たちは大いに動揺し、舅の藤原顕光まで批判の矢にさらされました。
この時代、結婚した後の男性を指導・監督するのは妻の父や実家の人々だったからです。
当時は妻の家に夫が通うという結婚形態だったため、妻一族の財力が非常に重要ですし、かなりの力を認められていたのは、大河ドラマ『光る君へ』でもご存知かもしれません。
あの道長も、正室である源倫子の実母・藤原穆子には頭が上がらなかったといいます。
道長と倫子の結婚を推し進めたのが穆子であり、そのおかげで道長が強大な権力を手に入れたのですから、当然と言えば当然ですかね。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
敦明親王や他の公家たちも、穆子にツテを作ればなんとかうまくやっていけたのかもしれませんが……残念ながら、穆子は長和元年(1016年)に亡くなっていました。
当時12歳の敦明親王には荷が重かったでしょう。
これだけだと
「敦明親王ってやべー奴じゃん!こんなのが天皇にならなくてよかったじゃん!?」
と思ってしまいますが、行動力そのものが良い方向に動いたこともありました。
三条天皇と藤原道長
長和四年(1015年)、内裏で大火事が勃発。
このとき敦明親王は一刻も早く避難するため自ら母后を抱えて脱出するという、行動力のある一面を見せました。
それだけでなく、烏帽子を忘れた三条天皇に自分の烏帽子を譲るという、非常に勇気ある行動もしています。
当時の公家社会では、頭部や髻(もとどり・頭の上で束ねた髪のこと)を人目に晒すのは、現代人で言えば公衆の面前でパンツ姿になるのと同じ恥ずかしいことであり、自分を犠牲にしてでも父親の面子を保ったのです。
ただし、その直後に、周辺にいた別の貴族から烏帽子を取り上げて被ったそうなので、取られた貴族が気の毒なんですが……。
「私はあの危急のとき宮様のお役に立ったのです!」
なんて調子で、その貴族も誇りに思えてたらいいんですけどね。
なお、三条天皇は長和三年(1014年)頃から目を病んでおり、その最中に見舞われた火災で長男に救われ、父として頼もしかったことでしょう。
この頃の三条天皇は、道長と静かな闘い繰り広げている最中でもあったのでなおさら。
既に皇太子は敦明親王ではなく、道長の外孫である敦成親王に決定しており、三条天皇が譲位すれば道長の独壇場も当然の状況だったのです。

三条天皇/wikipediaより引用
道長としては、一分一秒でも早く孫を帝位に就けたい。
圧力を受ける側の三条天皇としてはたまったものではない。
眼病を患っていることも「譲位、はよ^^」と急かされる理由になってしまいました。
しかし、三条天皇もタダで譲位するのは悔しかったのでしょう。
「敦明親王を皇太子にするならば、すぐに退位しよう」
と道長に交渉を持ちかけます。
道長は敦成親王の同母弟である敦良親王をすぐに皇太子にするつもりでいましたが、ここは譲位を優先したようです。
こうして長和五年(1016年)1月29日に三条天皇は譲位し、敦成親王が即位して後一条天皇となりました。
敦明親王は父と同様、はるかに年下であった後一条天皇の皇太子に立ち、新たな体制がスタートします。
皇太子を敦良親王に譲る
敦明親王らの勢力に対し、藤原道長は地味な圧迫を加え続けました。
例えば「壺切の剣」※1について。
※1別名「壺切の御剣」「壺切太刀・つぼきりのたち」
皇太子には代々、この宝刀が伝えられていたのですが、敦明親王に渡さなかったのです。道長、子供かッ!
と、ツッコミたくもなるかもしれませんが、当時最大の権力者がこの調子となれば、他の公家たちも右に倣うしかありません。
敦明親王もずいぶん悩んだことでしょう。
そして寛仁元年(1017年)6月に三条上皇が崩御すると、唯一に等しい後ろ盾を失った敦明親王は決断します。
同年8月に皇太子を辞して、敦良親王にその地位を譲ったのです。
30代や40代で寿命を迎えてもおかしくない時代――8歳の後一条天皇の次に当時23歳の敦明親王が帝位へ付ける可能性はかなり低かったと考えられます。
そのため父の死が、敦明親王が帝位を完全に諦めるキッカケになったのかもしれません。
「ならば最初から皇太子になど、ならなくてもよかったのでは?」
現代人ならそう考えてしまうかもしれませんが、道長に対する精一杯の抵抗、あるいは意地や矜持などがあったのではないでしょうか。
道長は敦明親王の行動に大いに感謝し、暮らしに不自由することがないように取り計らっています。
「小一条院」の院号を授け、上皇と同じ扱いを受けられるようにし、さらには末娘の藤原寛子を妻として差し出したのです。しかし……。
苦境の中で敦明親王に長年連れ添ってきた延子にとっては、悲しい出来事。
病みついた彼女は寛仁三年(1019年)に急死してしまい、その父である藤原顕光も治安元年(1021年)に病没となります。
そのため「顕光父娘は怨霊になって寛子に祟った」と言われるようになり、顕光には「悪霊左府」という不名誉なあだ名までついてしまいました。
左府とは左大臣の異称で、顕光が左大臣だったことからきています。
まあ、この経緯では恨みたくもなろうというものですよね……。
道長からは厚遇されるも他の貴族からは……
皇太子の座をすんなりと譲られた件で、藤原道長から色々と厚遇された敦明親王。
他にも家来を大勢つけられ、敦明親王の子供たちを例外的に親王宣下が受けられたりしましたが、その一方で、周囲の公家たちからは疎んじられるようになります。
例えば、敦明親王が寛仁三年(1019年)10月に石山寺へ参詣した際、接待するはずの公家がサボったことがありました。
仕方がないので、敦明親王の執事を務めていた道長の四男・藤原能信が近隣から接待の人員を強引に集めたとか。
また、紀伊の国司を努めていた高階成章という公家に対する暴力事件も知られています。
高階成章は、敦明親王が持っていた紀伊の荘園について何かまずいことをやっていたらしく、治安元年(1021年)、敦明親王の従者から文字通り殴る蹴るの暴行を受けるハメになってしまったのです。
成章の悪事については、当時の公家社会でもふんわりとした噂になっていたようで「いつかこういうことになるだろうと思っていた」と感じる人が多かったとか。
そもそも荘園というのは、いわば財源です。
その権益が損なわれたとなれば、敦明親王でなくても激怒するのは当たり前ですが、その”当たり前”を成章が犯してしまったのは、父の代から道長に目をかけられており、驕りがあったからと考えられます。
当時の他の公家たちの日記にも事の詳細が書かれていないのは、よほど大それたことだったのか、あるいはよほどありふれていて特記に値しないと思われたのか……。
いずれにせよ、この件の後も敦明親王に対する公家たちの態度は、あまり引き締まらなかったようで。

画像はイメージです
治安三年(1023年)賀茂祭(現代では葵祭)で、こんな出来事が起きています。
都に帰ってくる祭使の行列を見物するため、場所を確保しようとした敦明親王。
従者に命じて周辺の見物人を追い散らすと、知足院の中に逃げ込んだ者を追って、騎乗したまま院内を駆け回った者がおり、僧房に甚大な被害が出たといいます。
何かを見物するときに、身分の高い者が半ば強引に場所を取る――というのは、ままありますが、ここまで荒っぽいケースはなかなか見られません。知足院、涙目。
また、このとき敦明親王の執事・高階在平が従者に前長門守・高階業敏を暴行するよう命じたともされます。
具体的には”業敏の烏帽子を奪って髻をさらさせ、さらに髻をかき乱させた”といいますから、かなりの乱暴ぶり。
業敏は前述した成章の兄ですので、兄弟揃ってよほど敦明親王から恨まれていたのでしょう。
しかし一方で、敦明親王自身も恨みを忘れない質だったようで、万寿四年(1027年)には、誘拐未遂事件の犯人側にもなってしまっています。
荒々しい一面が突如表に出てくるが
誘拐未遂事件とは一体どんな内容だったのか?
相手は、右大臣・藤原実資に仕えていた「豊武」という職人でした。
敦明親王は当初、彼の身柄を引き渡すように実資に要求したものの、実資は公的な裁定を求めて検非違使庁にこの話を通します。
検非違使庁は主に軍事・警察を司る役所です。
現代では行政機関である警察と司法機関の裁判所は明確に分けられていますが、古い時代には境目が曖昧でした。
むしろ、検非違使庁に他の行政機関や司法機関の仕事が集約されていった傾向があります。
検非違使は武士の出世コースのひとつでもありましたので、そのあたりも関係しているのでしょう。
そんなわけで、豊武の罪状について検非違使庁が判断することになったのですが……「豊武には罪がない」と判断され、身柄も敦明親王には渡りませんでした。
”罪”というのが具体的に何のことなのか。
詳細は伝わっていないのですが、敦明親王にとってはよほど重大なことだったようで……従者五名に命じて、豊武を拉致してしまおうとするのです。
荒々しい一面が突如表に出てくる方ですよね。
しかし、連行する途中で実資に仕える牛飼(牛車の牛を世話する人)らに見つかり、大騒ぎに発展。
両者ともに抜刀するほどの騒ぎとなり、そのどさくさに紛れて豊武は逃亡に成功したため、拉致は失敗に終わりました。
牛飼たちにしてみれば、自分の同僚のような人がなぜか連れ去られようとしているわけですから、そりゃ騒ぎますよね。
こういった手荒な方法を辞さない面が多く見られたため、敦明親王に対しては批判的な見方が強くなっていきます。
家来を誘拐されかけた藤原実資はもちろん、藤原行成も「私は顔相には詳しくないが、敦明親王は天皇の顔相ではないと思う」と記すほどです。
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しかし、です。家族に関する行動からすると、敦明親王がただの乱暴な人というのも違うような気がします。
親王本人の日記などが残っていれば、もっとその人柄なども明らかになり、行動力のある一面が評価されそうな気もするのですが……。
★
敦明親王は、その後しばらくして出家し、永承六年(1051年)1月8日に薨去。
行動力があった方なのは間違いないので、それを発揮できる時代や官職に恵まれていれば、全く異なる評価になったのではないでしょうか。
万寿四年以降の言動によっては印象が変わる可能性もありますので、今後の研究が進むことを期待したいところです。
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【参考】
国史大辞典
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
ほか






