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【敦明親王】
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道長からは厚遇されるも他の貴族からは……
皇太子の座をすんなりと譲られた件で、藤原道長から色々と厚遇された敦明親王。
他にも家来を大勢つけられ、敦明親王の子供たちを例外的に親王宣下が受けられたりしましたが、その一方で、周囲の公家たちからは疎んじられるようになります。
例えば、敦明親王が寛仁三年(1019年)10月に石山寺へ参詣した際、接待するはずの公家がサボったことがありました。
仕方がないので、敦明親王の執事を務めていた道長の四男・藤原能信が近隣から接待の人員を強引に集めたとか。
また、紀伊の国司を努めていた高階成章という公家に対する暴力事件も知られています。
高階成章は、敦明親王が持っていた紀伊の荘園について何かまずいことをやっていたらしく、治安元年(1021年)、敦明親王の従者から文字通り殴る蹴るの暴行を受けるハメになってしまったのです。
成章の悪事については、当時の公家社会でもふんわりとした噂になっていたようで「いつかこういうことになるだろうと思っていた」と感じる人が多かったとか。
そもそも荘園というのは、いわば財源です。
その権益が損なわれたとなれば、敦明親王でなくても激怒するのは当たり前ですが、その”当たり前”を成章が犯してしまったのは、父の代から道長に目をかけられており、驕りがあったからと考えられます。
当時の他の公家たちの日記にも事の詳細が書かれていないのは、よほど大それたことだったのか、あるいはよほどありふれていて特記に値しないと思われたのか……。
いずれにせよ、この件の後も敦明親王に対する公家たちの態度は、あまり引き締まらなかったようで。
治安三年(1023年)賀茂祭(現代では葵祭)で、こんな出来事が起きています。
都に帰ってくる祭使の行列を見物するため、場所を確保しようとした敦明親王。
従者に命じて周辺の見物人を追い散らすと、知足院の中に逃げ込んだ者を追って、騎乗したまま院内を駆け回った者がおり、僧房に甚大な被害が出たといいます。
何かを見物するときに、身分の高い者が半ば強引に場所を取る――というのは、ままありますが、ここまで荒っぽいケースはなかなか見られません。知足院、涙目。
また、このとき敦明親王の執事・高階在平が従者に前長門守・高階業敏を暴行するよう命じたともされます。
具体的には”業敏の烏帽子を奪って髻をさらさせ、さらに髻をかき乱させた”といいますから、かなりの乱暴ぶり。
業敏は前述した成章の兄ですので、兄弟揃ってよほど敦明親王から恨まれていたのでしょう。
しかし一方で、敦明親王自身も恨みを忘れない質だったようで、万寿四年(1027年)には、誘拐未遂事件の犯人側にもなってしまっています。
荒々しい一面が突如表に出てくるが
誘拐未遂事件とは一体どんな内容だったのか?
相手は、右大臣・藤原実資に仕えていた「豊武」という職人でした。
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敦明親王は当初、彼の身柄を引き渡すように実資に要求したものの、実資は公的な裁定を求めて検非違使庁にこの話を通します。
検非違使庁は主に軍事・警察を司る役所です。
現代では行政機関である警察と司法機関の裁判所は明確に分けられていますが、古い時代には境目が曖昧でした。
むしろ、検非違使庁に他の行政機関や司法機関の仕事が集約されていった傾向があります。
検非違使は武士の出世コースのひとつでもありましたので、そのあたりも関係しているのでしょう。
そんなわけで、豊武の罪状について検非違使庁が判断することになったのですが……「豊武には罪がない」と判断され、身柄も敦明親王には渡りませんでした。
”罪”というのが具体的に何のことなのか。
詳細は伝わっていないのですが、敦明親王にとってはよほど重大なことだったようで……従者五名に命じて、豊武を拉致してしまおうとするのです。
荒々しい一面が突如表に出てくる方ですよね。
しかし、連行する途中で実資に仕える牛飼(牛車の牛を世話する人)らに見つかり、大騒ぎに発展。
両者ともに抜刀するほどの騒ぎとなり、そのどさくさに紛れて豊武は逃亡に成功したため、拉致は失敗に終わりました。
牛飼たちにしてみれば、自分の同僚のような人がなぜか連れ去られようとしているわけですから、そりゃ騒ぎますよね。
こういった手荒な方法を辞さない面が多く見られたため、敦明親王に対しては批判的な見方が強くなっていきます。
家来を誘拐されかけた藤原実資はもちろん、藤原行成も「私は顔相には詳しくないが、敦明親王は天皇の顔相ではないと思う」と記すほどです。
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しかし、です。家族に関する行動からすると、敦明親王がただの乱暴な人というのも違うような気がします。
親王本人の日記などが残っていれば、もっとその人柄なども明らかになり、行動力のある一面が評価されそうな気もするのですが……。
★
敦明親王は、その後しばらくして出家し、永承六年(1051年)1月8日に薨去。
行動力があった方なのは間違いないので、それを発揮できる時代や官職に恵まれていれば、全く異なる評価になったのではないでしょうか。
万寿四年以降の言動によっては印象が変わる可能性もありますので、今後の研究が進むことを期待したいところです。
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【参考】
国史大辞典
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
ほか