和泉式部

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

和泉式部(光る君へ あかね)は親王や貴族を虜にする“あざとい女”だったの?

平安時代の貴族といえば、切っても切れないのが恋愛模様。

特に一定以上の身分がある女性は外出もしにくかった時代ですから、恋愛の始まりも継続も、男性の都合や言動に大きく影響されます。

恋愛経験が多いほど、そういった面で翻弄されることも多いわけで……。

大河ドラマ『光る君へ』でも、あかねとして登場するやいなや注目された和泉式部は、その最たる例でしょう。

「恋多き女」として現代に知られる和泉式部は、いわば「あざとい女」とか「小悪魔系」のようなイメージをされるかもしれません。

しかし実際はどんな女性だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 


夫の任国赴任に従った和泉式部

歴史上の大多数の女性と同じように、和泉式部も生没年は不明。

天元元年(978年)生まれではないかとされていて、両親は父が大江雅致で、母が平保衡の娘でした。

母は、当時の太皇太后・昌子内親王(冷泉天皇皇后)に仕えていた。

父は、長保元年(999年)に太皇太后宮大進(=太皇太后に仕える役人)だった。

そして和泉式部も昌子内親王に仕えていた、という説がありますが、こちらは判然としていません。

和泉式部の最初の夫となる橘道貞は、和泉守と太皇太后宮の役人を兼職していました。

二人が結婚に至る経緯は?

というと、おそらく和泉式部の父か母が橘道貞に娘の話をし、文のやり取りなどから始まったものと思われます。

結婚した年もハッキリとはしておらず、和泉式部と道貞が一回り以上の年齢差があったことは間違いないようです。

ただ、当初の二人は仲睦まじかったようで。

和泉式部が夫の任国赴任に従って、共に和泉へ行ったり、長徳年間(995年~999年)に娘・小式部内侍に恵まれたり、さらには和泉にいた頃と思しき歌にこんなものがあります。

言問はば ありのまにまに 都鳥 都のことを 我に聞かせよ

【意訳】都鳥よ、私が問うたときはありのままに都のことを教えておくれ

和泉の位置は、現在でいうと大阪南西部にあたります。

他の地域と比べれば都に近いながら、当時の交通事情では遠く感じたのでしょう。

都のことを知りたがりつつも、寂しさや帰京の念などはあまり感じられないので、この頃の生活には大きな不満はなさそうに思えます。

 


道貞が和泉で愛人を作り……

二人の生活に大きな変化が訪れたのは長保元年(999年)、昌子内親王が薨去したあたりです。

和泉式部は京都に留まるようになり、この頃から夫と別居を選びました。

よくある話ではありますが、道貞は和泉で愛人を作り、それが和泉式部には許しがたいことだったようで、道貞の家を出ると実質的な離婚状態に陥ります。

あくまで私見ながら、和泉式部は道貞のことを心底嫌ったわけではないのでは?と思います。

寛弘元年(1004年)に、こんな歌を道貞に送っているからです。

もろともに 立たましものを みちのくの 衣の関を よそに聞くかな

【意訳】あなたが任国に立たれると聞きました。今も私達が夫婦であったなら、陸奥の衣の関を一緒に越えたのでしょうね

完全に愛想が尽きていたら、こうした歌をわざわざ送らないのでは?

時系列が前後しますが、和泉式部が道貞の家を出てからこの歌を送るまでの間に、彼女は二人の親王との恋愛をしています。

その過程でなかなか辛い境遇になることもあり、もしかすると

「あなたがずっと誠実でいてくれたら、私達は今も夫婦でいられたはず。そうだったら、私はこんなに辛い恋の中に身を置くことはなかったのに」

という気持ちも入っているのかもしれません。

それに、当時の女性は本名を公にしないという習わしがあり、宮仕えなどの際は父親や夫の官職名から呼び名をつけることが多々ありました。

和泉式部の”和泉”は夫が和泉守だったことからきていると考えられ、世間的には

「和泉式部と橘道貞は夫婦である」

ということがかなり長く認識されていたと思われます。

また、道貞の”道”は藤原道長からとられたとも言われており、これまた後述する和泉式部の出仕先との関連も多少ありました。

これらのことを総合して考えると、道貞が世間体を気にして、多少なりとも和泉式部のもとに通うようになってくれることを期待していたのかもしれませんね……。

そして、複雑な感情の渦巻く中、和泉式部の前に現れたのが、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王でした。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-飛鳥・奈良・平安, 光る君へ
-,

×