和泉式部

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

和泉式部(光る君へ あかね)は親王や貴族を虜にする“あざとい女”だったの?

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為尊親王に続いて敦道親王と熱愛

為尊親王はなかなか好色な人物だったようで、和泉式部に熱を上げ、頻繁に通っていました。

しかし、いかんせん身分の差がありすぎます。

そのため和泉式部を正式な妻として迎えることができずに時間が経過。

そのうち為尊親王は病を得て、長保四年(1002年)に26歳の若さで薨去してしまいました。

和泉式部のほうでも身分の差に苦しみつつ、為尊親王を愛していたようで、その悲しみを伝える歌をいくつも詠んでいます。

しかし、彼女は高貴な男性にとって魅力的だったのでしょう。

次に、為尊親王の同母弟である冷泉天皇の第四皇子・敦道親王が和泉式部のもとに通い出します。

そしてその敦道親王との恋愛経緯を描いたのが『和泉式部日記』です。

かなり熱烈な恋愛だったようで、長保五年(1003年)12月、敦道親王は強引に和泉式部を屋敷へ引き取ってしまいます。

表向きは召使いの一人という立場でしたが、既に二人の仲は世間の噂になっていたため、敦道親王の嫡妻だった藤原済時の娘が激怒。

このことを知った藤原娍子(せいし/すけこ・敦道親王嫡妻の実姉)も同じく怒り、寛弘元年(1004年)に妹を引き取ってしまいました。

「日記」はここで終わっており、この後ほとぼりが冷めるまでどのような経過をたどったのかは不明ですが、しばらく和泉式部が肩身の狭い思いをしたことは間違いないでしょうね。

藤原娍子は三条天皇皇后でしたし、敦道親王の面子やこれまでの経緯を思えば、実家や道貞に迎えを頼むこともできなかったでしょう。

そんな状況の最中、

寛弘三年(1006年)ごろ、和泉式部が敦道親王の男子を授かったのです。

この子は”岩蔵の宮”と呼ばれ、後に出家して「永覚」と名乗ります。

しかし、幸せは束の間のことでした。

 


紫式部「素行は良くないが歌は素晴らしい」

寛弘四年(1007年)10月、敦道親王も若くして薨去してしまったのです。

立て続けに恋人を失った和泉式部は深く悲しみ、やはり歌にその気持ちをこめています。

今はただ そよその事と 思ひ出でて 忘るばかりの 憂きこともがな

【意訳】今はいっそのこと、宮様との悲しいことを思い出して、このつらさを忘れてしまいたい

その後いかなる経緯だったのか不明ですが、寛弘六年(1009年)頃、和泉式部は一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えることとなります。

大河ドラマ『光る君へ』でもここが出番ですね。

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娘の小式部内侍も一緒だったようです。

前述の通り、小式部内侍は長徳年間(995年~999年)の生まれとされているので、出仕を始めた当時は大きくて14歳、小さければ10歳ほど。

前者であれば当時の基準では大人ですが、後者の場合は女房見習いの女童(めのわらわ)として仕え始めたのではないかと思われます。

彰子は長保元年(999年)に入内すると、寛弘五年(1008年)9月に敦成親王(あつひらしんのう・後の後一条天皇)を出産し、母になっていました。

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このとき紫式部は和泉式部のことをどう思っていたのか?

紫式部日記』で以下のように書かれています。

「素行はあまり良くないが、歌は素晴らしい」

男性関係を踏まえてのものなのか。普段の態度のことなのか。

ちょっと厳しい物言いですが、それでも和歌の才能は認められていますね。

同じく彰子の女房だった伊勢大輔と親しく語り明かしたとされています。

宮仕え時代の和泉式部についてはあまり逸話がないのですが、こんな歌が残されています。

おぼめくな 誰ともなくて 宵々に 夢に見えけん 我ぞその人

【意訳】あなたの毎晩夢に現れている人がいるでしょうが、怪しまないでください。私こそがその人です

この歌は、「初めて恋文を出そうとする男性の代わりに作った歌」だとされています。

当時は「恋をすると相手の夢に自分が出る」という迷信があったため、夢と恋を結びつけた歌がたびたび詠まれました。

和泉式部がいつこの歌を詠んだのか。

実は判然としていないのですが、自宅や敦道親王邸にいた頃は代作を頼まれるような男性はいなかったでしょうから、宮仕え時代のものではないか?というわけです。

宮仕えをするとなると、公的な用事で男性と顔を合わせることもかなり多くなったようですし。

 


道長の家司・藤原保昌と再婚

和泉式部はその後、藤原道長の家司である藤原保昌と再婚しました。

保昌は武勇に優れ、「道長四天王」とも呼ばれた人物です。

天徳二年(958年)生まれなので、彼もまた和泉式部とはかなりの年の差があったと思われます。

主人の道長は和泉式部のことを「浮かれ女(うかれめ)」と称していたそうですので、あまり良い印象を持っていなかったようなのですが……。

本人たちがよほど燃え上がっていたのか、道長が単に軽くふざけていただけなのか、どっちなんでしょう。

保昌と和泉式部の関係も悪くなかったようです。

彼が丹後守に任ぜられた際は、和泉式部も一緒に任地へ赴き、その頃も別の男性に言い寄られても、跳ね返したと思しき歌が伝えられています。

我のみや 思ひおこせん あぢきなく 人は行方も 知らぬものゆゑ

【意訳】覚えているのは私だけなのでしょうか。人は私の行く先を知らないのに

もう少し砕けた説明にしますと、こうなりますね。

「私はもう保昌殿の妻ですし、一緒に任地へ行くことも決まりました。それすら知らないあなたが、今更何を言っているの?」

当時は人の噂が唯一の情報源といっても過言ではありませんから、誰かの近況を知りたければ、同僚なり女房たちなりに聞いて回るのがセオリー。

逆に言えば、誰かに聞けば和泉式部の近況を知ることも難しくなかったわけです。

それすらしないのに、今更口説きに来てもなびくわけがないでしょう……という気持ちだったのでしょう。

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