笠懸/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代

鎌倉武士ってどんな生活してたん?衣食住&武芸&刀剣甲冑事情マトメ

白い小袖は公家社会では下着扱いだったので、色や模様を入れて「下着じゃないですよー」とわかりやすくしたのがはじまりだといわれています。

現代でいえば、キャミソールみたいなものでしょうか。

一昔前までは完全に下着としてしか使われていませんでしたが、近年ではTシャツなどと同じように、一枚で着ている人もいますよね。
人の行動・考え方は1,000年前も大して変わらない……ということでしょうか。

小袖と着物/photo by Hanachiru Wikipediaより引用

また、武家の女性は公家社会で使われていた袴を「動きにくいから」という実用的な理由で着なくなったといわれています。
小袖が発達したのは、こちらの理由もあるでしょう。

服の色については、紺や紅色、山吹色、濃い蘇芳色、茜色などが好まれていたようです。

紺色はおそらく「勝色(かちいろ)」と呼ばれる少しグレーがかった紺色のことだと思われます。元は「褐色」と書いており、麻の布に藍の染料を叩き込んで染めた色のことです。

この叩き込む作業のことを「搗つ(かつ)」と呼んでおり、これが「勝つ」に通じて縁起が良いということで、武士に長く好まれました。
鎧にも勝色の糸を用いた「勝色威(かついろおどし)」というものがあります。

山吹色が好まれたのは、当時、この色を染めるのに使われていたと思われる、キハダという木が日本全土に広く自生しているからだと思われます。
染料がないと好き嫌い以前の問題ですしね。

他の色も同様に、茜色はアカネ(赤根)、蘇芳色はスオウ、紅色は紅花で染めていましたが、どれも鎌倉時代以前から日本で広く自生、もしくは栽培されていた植物です。

 

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折烏帽子

他に武士特有のものとして、「折烏帽子(おりえぼし)」があります。

多賀高忠肖像の折烏帽子/Wikipediaより引用

武士も最初の頃は貴族のような烏帽子をかぶっていたのですが、これにも強く糊付けをした結果、ずり落ちやすくなってしまいました。

そこで、髷(まげ)の部分だけをやや高く残すような形で烏帽子を折ったのが折烏帽子です。

武家は実用主義とよくいわれます。
服装の変遷については、特に実用性が重視されていたことがわかりますね。

しかし、彼らも慣れないながらにオシャレをして文化人・為政者らしくなろうと務めたようで。

女官の尼僧が書いた『とはずがたり』という自伝にも、
「武士たちは色とりどりの直垂で鶴岡八幡宮に参詣している」
と書かれています。

もっともこれは、神様の前に行くのに神事に使う「浄服」でないことに驚いた――そんな文脈で書かれていますが。
いずれにせよその個性の一面が出ていますよね。

 

【運動量が多い=エネルギーが多く必要&塩分摂取が不可欠】ということで、武士の食事の基本は【大量の米+しょっぱい】ものでした。

このころ羽つきの釜が登場したため、米の炊き方も変わってきています。
平安時代までは炊くという方法がなく、うるち米ももち米のように蒸していました。そのため、現代のおこわのような「強飯(こわいい)」という固いご飯が主流でした。

現代でいう「ごはん」は「姫飯(ひめいい)」といって、特別な日にしか食べられないごちそうだったのです。
年始の「姫始めの由来は、その年で最初に姫飯を食べる日だ」という説もありますね。

鎌倉時代には「湯取り法」といって、お米を釜で煮て、沸騰した後にザルに上げて重湯を切り、蒸すという方法ができました。

ただし、武士社会でどこまで手間を掛けていたかというと、家や個々人の差が大きかったでしょうね。
武士は「戦のときには一日五食」なんてのも珍しくありませんし、この時代は、白米より玄米、そして100%米の飯よりも、雑穀を混ぜて食べるほうが多かったですから。

おかずは味噌や醤(ひしお)などの他、武芸の鍛錬として野生の鳥獣を狩っていたので、それらを食べることも多く、栄養バランスは比較的良かったと思われます。
……まあ、そうでもないと鎌倉幕府の内輪であんなに「ナントカの変」だの「誰それの乱」だのは起きませんよね。みんな健康的すぎ。

 

武家造(ぶけづくり)と称される、今日の日本家屋の原型と呼べるものが出てきたとされています。

が、この呼び方はほとんど使われません。
室町時代により様式として整った「書院造」の中に含まれることになっているからです。

書院造の慈照寺東求堂(銀閣寺)

というのも鎌倉幕府の将軍が最初の三代を除いて、皇族や公家だったことが大きな理由と思われます。

上方出身、あるいはそういった親を持つ人々にとって、やはり生活しやすいのは京の上流階級の生活様式です。
当然建築や家屋敷も含まれますから、将軍御所は寝殿造の小型化+αといった様相だったと考えられています。

一般の武士は寝殿造ほどの大規模な屋敷を設けることは稀で、家屋や庭もこぢんまりと作られました。

代わりに(というのも何ですが)、屋敷の周囲に塀や堀を設けたり、警備の武士を置くことが重視されています。
土地を巡る係争や、賊の襲来への備えのためです。

法然上人絵伝』や『蒙古襲来絵詞』などの鎌倉末期の絵巻物には、こういった武士の屋敷の場面が出てくるため、いくらか当時の雰囲気を知ることができますね。

鎌倉幕府の中で、一定以上の地位を持つ御家人は、若宮大路の両側に屋敷用の土地をもらい、そこに家を持っていました。
現代と同様、立地条件のよい土地は、広い家を持ちにくく、郊外により大きな家を持つ武士も少なくなかったようです。

時代が前後しますが、江戸時代の大名が上屋敷・中屋敷・下屋敷を持ち、使い分けていたのと似ていますね。
江戸幕府が、鎌倉時代のこうしたやり方を取り入れたというほうが近いでしょうか。

また、鎌倉の武士の屋敷跡と思しき場所からは、中国産の陶器や公家が使うような装飾品が出土しています。
庭を貴族と比べれば質素ながらに、工夫をこらしていたようです。

 

甲冑

鎌倉時代は武士の時代の始まりということで、甲冑や刀剣などが発展した時代でもありました。
鎌倉時代後期には、戦勝祈願として神社に甲冑を奉納する習慣ができたため、甲冑に美しい糸を使うなど、装飾の色が濃くなっています。

といっても、平安末期から鎧を美しく作る習慣はありました。

平家物語の有名なエピソード「敦盛の最期」でも、平家の貴公子である敦盛が、以下のような出で立ちをしていたことが描かれています。

平敦盛/wikipediaより引用

「練貫に鶴縫うたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(にほひ)の鎧きて、
鍬形打ったる甲(かぶと)の緒締め、黄金づくりの太刀をはき、
切斑の矢(背)負い、滋籐の弓持て、
連錢葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に黄覆輪(きんぶくりん)の鞍置いて乗ったる武者一騎」

これ、声に出して読むとすごく調子が良くて気持ちいいんですよね。平家物語はもともと琵琶法師たちが語り継いだものですから、当たり前といえば当たり前なんですが。

ざっくり現代語訳すると、

「その武者は、鶴の刺繍が施された上質な着物に、萌黄のような色糸を用いた鎧を着て、
見事な鍬形の兜をかぶり、黄金づくりの太刀を佩き、矢羽に斑のある矢を背負い、滋籐の弓を持ち、
連錢葦毛と呼ばれる模様の馬に、金で装飾された鞍を置いて乗っていた」

となります。

平家が貴族趣味だったから……というのもありますが、
「大将たるものは立派な出で立ちをしていなければならない」
という概念がありました。
まぁ、そうでないと、どこの誰を討ち取ったのかわかりにくくなりますしね。

日本の鎧は小札(こざね)と呼ばれる小さな革の札をつなぎ合わせて作るのですが、その作業を「威(おど)す」といいます。
このとき使う糸の色に工夫をこらしていました。
「萌黄匂」とは、緑~黄緑~黄色の糸を順々に使って、グラデーション状にしたものです。若々しさを感じさせる色合いで、当時17歳だった敦盛によく似合ったのではないでしょうか。

他には、前述した勝色の糸を用いた「勝色威」や、赤い糸を用いた「赤色威」、さまざまな色を取り合わせた「色々威」などがあります。

現代に残っているものは色が褪せてしまっていることが多いのですが、赤色威は比較的色が残っている物が多い……気がします。
鎧は博物館でも刀とともによく飾られているので、お立ち寄りの際は当時の色合いに思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。

 

刀剣

日本刀は平安時代に誕生し、鎌倉時代に大きく発展しました。
最も有名な刀工「正宗」も、同時代の鎌倉の人です。

正宗/wikipediaより引用

他の有名どころだと「菊一文字」を作ったとされる則宗(のりむね)も鎌倉時代ですね。
彼は「一」の字を銘打つ一文字派に属し、後鳥羽上皇に最も気に入られた刀工だったため、菊紋を入れることを許されていました。

これが俗に「菊一文字」と呼ばれるようになりました。
固有名詞ではなくて、ニックネームみたいなものなんですね。

日本刀はだいたい「持ち主の名前やいわく」+「刀工名」で名前がつくので、そのセオリーに沿っているといえます。
他の例としては、石田三成が持っていた(その後、結城秀康に譲られた)から「石田正宗」などがあります。

余談ですが、よく”正”宗と誤字られる伊達政宗は、正宗の刀を持っていなかった説が濃厚だそうで。

イラスト・富永商太

江戸時代になってから「政宗殿は刀工正宗と同じ読みのお名前だから、当然正宗をお持ちですよね?^^」といわれたとき、政宗その場では見栄を張って「もちろん」といったものの、家中をひっくり返しても「”伝”正宗」しか見つからず、
「こんなにイイ刀が正宗じゃないわけがないだろ!」
と、磨り上げて正宗っぽくしたんだとか。

「磨り上げ(すりあげ)」とは、
「この刀、イイ感じなんだけど長すぎて使いにくいなー。からちょっと短くして使おう」
と、あっさり短くしてしまうことです。
戦国~江戸時代によく行われていました。

んで、この”伝”正宗の刀を明治時代になって鑑定したところ、「残念ながら……」という結果だったそうで。
正宗の希少性に感じ入るべきか、政宗のハッタリに呆r……感心すべきか迷いますね。え? 迷わない? そっか(´・ω・`)

正宗以外にも多くの刀派・刀工が誕生し、日宋貿易で盛んに輸出されました。
中国でも、探せば鎌倉時代の日本刀が出てくるんですかね? ご存知の方がいらしたら、ぜひお知らせください。

鎌倉時代の武士たち、特に鎌倉に住む人々は、武士として武芸や武具を磨きながらも、為政者らしくなるために努力を重ねていた……といえます。
それは現代の新社会人が、ネクタイの結び方で四苦八苦したり、ビジネスマナーを覚えたり、パワハラに耐えたりするのと似たような光景だったのかもしれません。

そう考えると、厳つかったであろう武士たちがちょっと微笑ましく思えてきますね。

長月 七紀・記

【参考】
『服装の歴史 (中公文庫)』(→amazon link
『図説 鎌倉伝説散歩 (ふくろうの本)』(→amazon link
国史大辞典「流鏑馬」「犬追物」「笠懸」
鎌倉文化/wikipedia
武家造/wikipedia

 



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