後白河法皇

後白河法皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

後白河法皇はどこまで老獪な政治家か?頼朝に「日本一の大天狗」と称された生涯

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、鎌倉武士たちを混乱させた老獪な政治家と言えば?

最も印象的だったのは、やはり西田敏行さんが演じた後白河法皇でしょう。

平家(平清盛)の力を削ぐため源氏の挙兵を促したかと思ったら、木曽義仲を途中で見捨てたり。

いざ平家が滅亡したら頼朝と義経を対立させようとしたり。

とにかく悪だくみばかりで、しかもそれが首尾よく運んだり運ばなかったりで、見ている方もヒヤヒヤさせられる――。

あまりに腹に据えかねたのでしょう。劇中では、源頼朝に「日本一の大天狗」とまで言われましたが、実際にそこまで言われたのか?

本稿では、建久3年(1192年)3月13日が命日である、史実の後白河法皇を振り返ってみたいと思います。

 


父は鳥羽上皇 母は藤原璋子

後白河法皇は大治二年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子(しょうし)の第四皇子として生まれました。

最初の呼び名は雅仁親王(まさひとしんのう)。

生まれて間もなくの親王宣下でしたが、生まれ順が遅く皇位継承とは無縁でした。

そのためか、政治的なことにはあまり興味がなく、当時の流行歌である今様(いまよう)に熱中していたといいます。

後に自ら『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という歌謡集(と同口伝集)も記したのですから、よほどのハマりようですよね。

『梁塵秘抄 (光文社古典新訳文庫)』(→amazon

この本には割とトンデモなエピソードが複数書かれていて、一つ例を挙げるとこれでしょうか。

「崇徳院が同じ御所に住むようおっしゃられた。あまりに近いので遠慮の気持ちもあったが、今様が好きでしょうがなかったので毎晩歌った」

思わず「おいおい」とツッコミたくなりますね。

今様に熱中したことそのものより、周囲への気遣いがなさすぎるというか、本音ぶちまけすぎというか……。

法皇自身も「喉から血が出るほど練習した」とのことで、詳細は以下の記事をご覧ください。

遊び方もヤバい後白河法皇~血を吐くほど今様を愛し金銀でボケる

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むろん、こんな調子ですから皇族からも公家からも評判はよろしくなく、父の鳥羽上皇ですら「あれは即位の器ではない」と言っていたそうです。

この時点では、皇位や権力への執着はなかったように思われますので、何を言われようとも屁の河童だったのかもしれません。大天狗の素養がチラッと見えますね。

 


後白河天皇

後白河法皇は、若い頃から妃を迎えていて、子供にも恵まれていました。

最初の妃は源有仁(ありひと)の養女である懿子(いし/よしこ)。

康治二年(1143年)に彼女が守仁親王(後の二条天皇)を出産しましたが、その後、急死しています。産後の肥立ちが悪かったのでしょうか。

その次は、藤原季成の女・成子が妃になり、二男四女を産みました。

しかし夫婦仲が良いとはいえなかったようで、ほとんど記録に登場しません。

そんな悠々自適な生活をしていた雅仁親王ですが、年貢の納め時がやってきます。

久寿二年(1155年)に、異母弟の近衛天皇が崩御したのです。

雅仁親王の子である守仁親王が近衛天皇の母・美福門院の養子になっており、次の天皇は「守仁親王に」という話になりかけたところ、こんな指摘が入ります。

「父君がご存命なのに、その息子が先に即位するのは順番としておかしくないですか」

かくして雅仁親王が中継ぎとして即位することになったのですが……雅仁親王あらため後白河天皇は面食らったかもしれません。

これによって院政の芽を摘まれた崇徳上皇の不満は募ります。

近衛天皇が即位した時点でも、崇徳上皇は院政ができておらず、代替わりで自分の皇子が即位するか立太子できれば、可能性が生まれたはず。

その芽がまた摘まれてしまったのですから、やるせない気持ちにもなるでしょう。

そして保元元年(1156年)、治天の君だった鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇と藤原頼長によって【保元の乱】が引き起こされました。

鳥羽上皇
鳥羽上皇の院政時代に起きた静かに根深い遺恨「長男は実子なのか?」

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保元の乱・平治の乱

【保元の乱】について、後白河天皇はほぼ門外漢といいますか、側近の藤原信西がほぼ全て計らってしまったので、ここでは省略させていただきます。

気になる方は、以下の関連記事をご参照ください。

保元の乱
保元の乱はまるで平安時代の関ヶ原! 対立関係を把握すればスッキリ

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いずれにせよ後白河天皇は元々中継ぎの予定でしたので、譲位も早めでした。

保元三年(1158年)、息子の守仁親王(二条天皇)に譲位し、後白河上皇となります。

しかし、これがまた新たな波乱の始まりでした。

二条天皇も、その成長を待ち即位したのですから、天皇による親政(天皇中心の政治)を考えてもおかしくありません。

一方、後白河上皇の側近たちとしては、院政になってもらわなければ困るわけです。

さらに院政派の中でも信西に「反発する・しない」で意見が激突。

もつれにもつれた対立構造はもはや治まることはなく、平治元年(1159年)に勃発したのが【平治の乱】です。

信西憎さで結束した二条親政派と後白河院政派。

ついには武力行使にまで至り、最終的にクーデター派を鎮圧した平清盛が一番オイシイところを持っていきました。

なぜ平清盛は平家の栄華を極めながらすぐに衰退させてしまったのか

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後白河上皇はここでもあまり重視されておらず、一旦は幽閉されながら、単身逃げ出しています。

詳細については、以下の記事をご覧ください。

平治の乱
平治の乱で勝利を収めた清盛の政治力~源平の合戦というより政争なり

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こうして親政派・院政派ともに有力者が消えたことにより、二条天皇と後白河上皇の対立は小康状態になりました。

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