衣川の戦い

義経像と弁慶像(安宅の関)

源平・鎌倉・室町

義経の最期は【衣川の戦い】奥州藤原氏に見限られ 自害に追い込まれ

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結局、奥州へ鎌倉軍が押し寄せることとなり…

頼朝は「差し出せって言ったのに何でお前がブッコロしてんだよ! 許すわけねーだろ!!」(超訳)と激怒。

結局、奥州には鎌倉の軍勢が押し寄せることになりました。

このへんの戦を「奥州合戦」といいます。

以下の記事にて取り上あげておりますので、よろしければ併せて御覧ください。

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余談ながら、『刀剣乱舞』で一躍有名になった厚樫山(阿津賀志山)の戦いは、奥州合戦のクライマックスにあたります。

縁もゆかりもないあの刀がなぜここにあるのかサッパリわかりません。

初期状態の最終ステージだからでしょうけど。

ちなみに藤原氏には四男の高衡という人もいて、奥州合戦でも戦いましたが、彼は大人しく降伏したため頼朝に許されました。

その後、鎌倉幕府内のクーデター未遂に加担してブッコロされてしまうんですけどね。あーあ。

 

四代目仙台藩主が義経堂を建立

話を衣川館に戻しましょう。

約500年後、四代仙台藩主・伊達綱村が衣川館の跡地とされる場所に「義経堂」というお堂と木像を作ります。

当人は伊達騒動に絡む、チョット困った方なんですけどね。

「伊達家の初代・朝宗(ともむね)が義経の子供を預かった」という伝承があるので、それを聞いて何か縁を感じたのかもしれません。

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その後も松尾芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」を詠んだのがこの周辺だといわれており、義経の最期についていろいろ考えた人は多かったようです。

「判官びいき」という言葉が現代にまで残っているくらいですから、これからもきっとそうでしょうね。

義経堂/wikipediaより引用

義経堂/wikipediaより引用

4月30日はGWにあたりますので、義経堂へ見物に出かけるのもよいかもしれません。

衣川館(ころもがわらのたち)とか高館義経堂(たかだちぎけいどう)あるいは判官館(はんがんだて・ほうがんだて)とも呼ばれます。

地図で示しておきますね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『源平合戦事典』(→amazon
源義経/wikipedia
衣川館/wikipedia
奥州藤原氏/wikipedia

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