こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【衣川の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
結局、奥州へ鎌倉軍が押し寄せることとなり…
頼朝は「差し出せって言ったのに何でお前がブッコロしてんだよ! 許すわけねーだろ!!」(超訳)と激怒。
結局、奥州には鎌倉の軍勢が押し寄せることになりました。
このへんの戦を「奥州合戦」といいます。
以下の記事にて取り上あげておりますので、よろしければ併せて御覧ください。
奥州の藤原泰衡は頼朝に騙された愚将なのか?義経を討ち最後は家臣に裏切られ
続きを見る
余談ながら、『刀剣乱舞』で一躍有名になった厚樫山(阿津賀志山)の戦いは、奥州合戦のクライマックスにあたります。
縁もゆかりもないあの刀がなぜここにあるのかサッパリわかりません。
初期状態の最終ステージだからでしょうけど。
ちなみに藤原氏には四男の高衡という人もいて、奥州合戦でも戦いましたが、彼は大人しく降伏したため頼朝に許されました。
その後、鎌倉幕府内のクーデター未遂に加担してブッコロされてしまうんですけどね。うーん。
四代目仙台藩主が義経堂を建立
話を衣川館に戻しましょう。
約500年後、四代仙台藩主・伊達綱村が衣川館の跡地とされる場所に「義経堂」というお堂と木像を作ります。
当人は伊達騒動に絡む、チョット困った方なんですけどね。
「伊達家の初代・朝宗(ともむね)が義経の子供を預かった」という伝承があるので、それを聞いて何か縁を感じたのかもしれません。
政宗の孫・伊達綱宗と伊達騒動!遊び呆けて東北の雄藩も危うく潰されそうになる
続きを見る
その後も松尾芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」を詠んだのがこの周辺だといわれており、義経の最期についていろいろ考えた人は多かったようです。
「判官びいき」という言葉が現代にまで残っているくらいですから、これからもきっとそうでしょうね。
4月30日はGWにあたりますので、来春に義経堂へ見物に出かけるのもよいかもしれません。
衣川館(ころもがわらのたち)とか高館義経堂(たかだちぎけいどう)あるいは判官館(はんがんだて・ほうがんだて)とも呼ばれます。
地図で示しておきますね。
あわせて読みたい関連記事
武蔵坊弁慶は史実の記録がほぼゼロなのになぜ有名?実際何をした人物なのか
続きを見る
実は義経の正室だった郷御前~最期まで夫に付き添い娘と共に非業の死を迎える
続きを見る
戦の天才だった源義経~自ら破滅の道を突き進み兄に追い込まれた31年の生涯
続きを見る
奥州の藤原泰衡は頼朝に騙された愚将なのか?義経を討ち最後は家臣に裏切られ
続きを見る
なぜ藤原秀衡は義経を二度も匿ったのか~奥州藤原氏の名君は頼朝に対抗する気だった?
続きを見る
頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦なぜ起きたのか 真の狙いは義経じゃない?
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
源義経/wikipedia
衣川館/wikipedia
奥州藤原氏/wikipedia