丹後局

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丹後局(後白河法皇の寵姫)は本当に悪女なの?鎌倉殿の13人鈴木京香

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で鈴木京香さんが演じる丹後局をご覧になって、どんな印象をお持ちになられたでしょう?

後白河法皇の側にいて、途中、政治的な言動を発したりして、

『あれ? 只者ではなさそうだぞ……』

と感じられたか。

あるいは

『やっぱりコイツは悪女枠か』

と眉をひそめられたか。

丹後局は、古風な言い方をすれば“毒婦”――男や世の中を惑わす女性として扱われがちです。

しかし、実際はそうとも言い切れません。

なぜなら彼女は、近い時代の別人と混同されやすく、当人とは無関係の悪事まで是非を問われたりするのです。

ではいったい誰と間違われるのか?

本稿では丹後局の生涯を振り返りたいと思いますが、まずは彼女にありがちな“混同”から確認して参りましょう。

 

毒婦の評価は別人の混同から?

丹後局と混同される別の女性とは?

まず一人目がコチラの方。

◆丹波局

ひらがなや耳で確認すればまだしも、漢字で見たらかなり誤読しそうですよね。

局(たんのつぼね)

局(たんのつぼね)

しかも二人とも、後白河法皇(※本稿では法皇表記で統一)の寵姫なのですから、ややこしいことこの上ない。

丹波局は江口遊女の出とされています。

後鳥羽天皇の即位をもたらした夢占いも彼女が行ったとされ、

「身分の卑しい女が政局に口を出すとはけしからん!」

というイメージもあって悪く言われました。

実際、この二人は当時から混同されるほどです。

しかも後鳥羽上皇院政時代にも、丹後局と丹波局という別の女性がいます。

もう名前を変えてくれよ、というレベルですが、さらに本稿主人公の丹後局と混同される女性がもう一人います。

それが

◆丹後内侍(たんごのないし/比企尼の娘・安達盛長の妻・島津忠久の母)

です。

『鎌倉殿の13人』では初回から源頼朝の側に安達盛長(演:野添義弘さん)がいましたよね。

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この盛長の妻が、比企尼(演:草笛光子さん)の娘で丹後内侍、別名を丹後局と言います。また、出ました丹後局……。

そんな丹後内侍には、源頼朝と関係を持っていたという説があります。

ドラマの中でかいがいしく動き回る安達盛長を思い出すと、なんとも嫌になる関係ですが、実際は

・島津忠久が「頼朝の子である」と持ち上げたいがための創作説

が有力です。

島津忠久は薩摩の雄・島津家の祖であるため、話が盛られてしまった可能性が高いんですね。

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いずれにせよ本稿で取り扱う丹後局は、名前から混同される要素が多々あり、色眼鏡で描かれがちだったりしました。

それを取り除き、史実面から彼女を追ってみましょう。

ちなみに……『鎌倉殿の13人』で比企尼を演じる草笛光子さんは、1979年大河ドラマ『草燃える』において丹後局(本稿の主人公である丹後局)を演じています。

余計にややこしくさせてスミマセン。

 

夫・平業房を平家に殺されて

丹後局は本名を高階栄子(たかしなのえいし)と言い、生年は不明。

父は、延暦寺の法印澄雲(ちょううん)あるいは上座章尋(しょうじん)とされます。

彼女が後に後白河法皇の寵姫となると「下賤な身分の出」であると陰口を叩かれました。

前述した丹波局(遊女の出)との混同もあるとはいえ、実際に丹後局も身分の高い出自ではなかったのでしょう。

彼女の前半生はささやかなものでした。

後白河法皇の北面に仕えていた武士・平業房(たいら の なりふさ)の妻であり、二男三女の母。

この夫・業房が、後白河法皇の目に止まります。

きっかけは今様でした。

今様とは、七五調で歌詞をつける当時の流行歌であり、後白河法皇が喉を痛めるほど楽しんだとされる遊びです。

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業房は後白河法皇にかなり気に入られていたようで、治承元年(1177年)【鹿ヶ谷の政変】により解任されたものの、復帰を果たしています。

当時、このことは相当驚かれました。背後に後白河法皇の寵愛がなければ考えられないことだからです。

しかし、二度目はありませんでした。

【治承三年の政変】(1179年)で解官されると伊豆へ配流となり、しかも、途中で囚われの身となって平宗盛の元へ送られ、拷問の末に惨殺されたのです。

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【治承三年の政変】とは、平清盛によるクーデター。

後白河法皇の院政が終了させられ、後鳥羽殿に幽閉されてしまいました。

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このとき、後白河法皇の側に侍り、寵愛と信頼を得たのが丹後局です。

夫が寵愛を受けた主人に接近し、自らも寵愛を受ける。

命まで落とした夫からすればどうなの?

そんなモヤモヤを感じたとすれば、後世の道徳感ゆえかもしれません。

貞女は二夫に見えず。

貞節を守る女性は、二人の夫に嫁がない。

こうした儒教概念が、当時の彼女にあてはまるかどうか。

道徳概念が希薄だったのか。

法皇の力を利用してでも夫の復讐を果たしたかったのか。

いずれにせよ彼女は、反平家のため策を練る後白河法皇の隣に侍ることとなったのです。

 

まるで楊貴妃ではないか

夫の死から2年後の養和元年(1181年)10月。

丹後局は後白河法皇の皇女・覲子内親王(きんしないしんのう)を産みました。

前述の通り生年不明の彼女には、仁平元年(1151年)の生誕説があり、それを前提にすると当時としてはかなりの高齢出産です。

周囲の公卿たちは、次第に

「子を産むだけでなく、政治まであの女の紅唇に操られ、まるで楊貴妃ではないか」

と囁くようになりました。

なぜ楊貴妃が出てくるのか。

後白河天皇に仕えた人物として、信西(しんぜい)という学識豊かな僧がいます。

2012年大河ドラマ『平清盛』では阿部サダヲさんが演じていましたが、その信西は後白河法皇に玄宗の例を挙げて釘を刺します。

玄宗は統治のはじめこそ【開元の治】という善政をしいた。

しかし楊貴妃に溺れてからは政務を怠り、【安史の乱】という一大事を招いたのである。

くれぐれもそのようなことにならぬよう、用心めされよ――。

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信西は【平治の乱】における混乱の中、自死を遂げます。

そんな信西が予測していた事態が起きます。

丹後局も楊貴妃になぞらえられるようになるのです。

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