九条兼実

九条兼実/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

史実の九条兼実はエリート貴族で頼朝の敵味方?鎌倉殿の13人田中直樹

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、ココリコの田中さんが演じる九条兼実は、どんな人物なのか?

出自だけ見れば、藤原道長も排出した摂関家のトップ貴族であり、いわばエリート中のエリート。

学識にあふれ、帝王学を熟知し、日本トップクラスの官僚として歩んできた人物です。

しかし彼は、生まれた時代があまりに悪かった。

幼くして【保元の乱】を見ると、程なくして平家が頂点に立ち、そして転落、代わって源頼朝が台頭する姿と直面することとなりました。

後白河法皇に振り回され、武士の姿を讃え、膨大な記録を残した九条兼実。

その生涯を振り返ってみましょう。

 

藤原摂関家に生まれる

2024年大河ドラマは紫式部を主人公とした『光る君へ』に決まりました。

藤原道長が権力を握っていた藤原氏の最盛期が舞台。

そこから時代が降ると、満月に例えられた彼等の権力も落ち込んでいきます。

譲位した上皇や法皇も権力を握る「院政」の台頭により、

天皇か?
上皇か?

という分権構造が出現すると、摂関家も引きずられて割れてしまい、宗教勢力や武士も権力を持ち始めるようになりました。

久安5年(1149年)――九条兼実は、そんな摂関家にヒビが入った時代に生まれました。

彼の父は藤原忠通です。

兼実はその六男であり、母・加賀は女房に過ぎない立場。

父と母は親子ほども歳が離れていて、忠通と兼実も、親子というより祖父と孫ほどの年齢差でした。

それでも4人の男子を産んだ母の加賀。兼実8歳のときに亡くなってしまいます。

と、彼は異母姉である聖子の猶子とされました。

姉といっても親子ほどの年齢差があったのです。

兼実は、この姉を慕い生きてゆきました。

 

摂関家をゆるがす保元の乱

藤原忠通は、なかなか複雑な家庭を築いていました。

正室・宗子との間で成人まで育ったのは女子である聖子だけ。

他の女性との間に男子は多数いましたが、母の身分や正室の宗子を憚ってか、出家してしまうことが多く、なかなか摂関家を継ぐ正嫡が決まりませんでした。

忠通も次第に歳を取ってくる。

そうなると忠通の子ではなく、忠通と親子ほども歳の離れた弟・藤原頼長が後継者として浮上してきました。

家を存続させるためには仕方のない話でしょう。

しかし、得てしてこういうタイミングで事態が動くから相続問題は難しく……。

康治2年(1143年)、忠通に待望の男子・藤原基実が生まれるのです。

こうなれば弟である頼長の後継者路線は変更となりますが、頼長にしてみればフザけんな!という話で、父・忠実と共に忠通排斥を企て、兄弟の中は決裂。

結果、弟・頼長が“日本一の大学生”あるいは“悪左府”と称されるほど強烈な知性を駆使し、藤原氏の頂点に立つのでした。

しかし、鳥羽天皇が崩御すると、朝廷内で決定的な対立が生じます。

【保元の乱】です。

崇徳か?後白河か?

朝廷を真っ二つに分けたこの争いで頼長は崇徳につきました。

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結果は、平清盛源義朝を擁した後白河の勝利。

保元元年(1156年)――この敗戦の中、頼長は頭部に受けた矢傷が元となり命を落としました。

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そんな最中、忠通が頼長に代わり、藤原氏の氏長者になる宣旨が発せられています。

忠通は喜ぶどころか、複雑な心境でした。

本来、氏長者とは藤原氏自身が決めることであり、よそから命じられるものではありません。時代の移り変わりが既に始まっていたのです。

翌保元2年(1157年)、兼実、当時9歳。

着袴の儀を済ませて昇殿を果たすと、さらに翌年の保元3年(1158年)、父・忠通が関白を辞し、16歳の兄・基実にその座を譲りました。

このとき帝は17歳の二条天皇(後白河の子)。

未曾有の乱を経て、若い政治が動き出していたのです。

藤原家の公卿として、兼実は兄を支えるべく学問の研鑽を積みます。

そして長寛2年(1164年)に16歳で内大臣となり、仁安元年(1166年)には18歳での右大臣に昇進を果たしました。

しかし兼実が右大臣となったこの年、兄・基実は24歳という若さで亡くなってしまいます。

 

三重苦の人生

性格は生真面目。

先例にのっとった儀礼を心がけ、神経が細やかな九条兼実。

そんなエリート貴族の彼にとって、憂鬱な時代が目の前にあらわれました。

平家の専横です。

【保元の乱】と【平治の乱】に勝利した平家は、向かうところ敵なしとばかりに自分たちの政治を強行。

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そんな兼実の思いを知ってかどうか、後白河院は平清盛に接近します。

弾指すべし――恥を知れ!

兼実は、平家に擦り寄る周囲を軽蔑し、記録にも残しましたが、彼だけその風潮に抗うこともできません。

せめてもの反発として記録にとどめ、表面的には平家の要求を呑むしかありませんでした。

さらに、兼実が仕える後白河法皇も、最悪の主君といえました。

なにせ皇子の頃から喉を潰すほど今様に夢中になり、まともな政はやらない。遊んでばかりの不真面目な人物として悪名高いのです。

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極めて真面目で儀礼にこだわり、ミスは許さない完璧主義者。

そんな兼実と相性が良いわけありません。

しかも兼実は持病に悩まされていました。

・平家の台頭

・ちゃらんぽらんな後白河院

・癒えぬ持病

そんな三重苦によるストレスの溜まる日々が続いていたのです。

 

清盛と聖子の死

時代は末法――気候変動が起き、仏の救いもないとされるほどの動乱へ突き進んでゆきます。

当時を生きていた人々には知る由もありませんが、気候変動が生活を不安定化していました。

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驕る平家も続きません。

安元3年(1177年)に【鹿ケ谷の陰謀】が起こると、怒った清盛により事件に関与したとされる公卿も処断。

この歳、安元から治承に改元されます。

そしてこの治承4年(1180年)こそ、運命の歳でした。

以仁王が挙兵し、それに呼応した源氏と反平家勢力もまた立ち上がったのです。

九条兼実より2歳年上の源頼朝も、北条氏と共に伊豆で兵を起こしました。

以仁王とそれに呼応した源頼政は、あっけなく敗死するも、兼実には何か予感があったようです。

そんな中、平清盛はよりにもよって福原遷都を強行。

兼実たち公卿が参仕しようにも、泊まるべき場所すらないお粗末な内容で、こんなことが成立するものかと、冷たい目線を投げかける兼実でした。

清盛側も兼実の体調を慮り、無理することはないという態度を取っています。

兼実は冷静に世を見ていました。

こんなにも乱れている元凶は清盛ではないか。

平家は凋落と共に強引な振る舞いが増えてゆき、兼実にも影響が及びます。

兼実はそんな平家を憐れむどころか、冷たい目線を投げかけていました。

ついに清盛は【南都焼討】という強引なことまでやらかします。

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寺社勢力の押さえ込みを狙ったものの、平家の凋落は止まりません。

間もなく清盛は熱病に倒れてしまいました。

治承5年閏2月4日(1181年3月20日)、兼実は清盛の死を淡々と短く記していました。

平家を軽蔑していた胸の内が見えるようで、ことさら高熱を強調することも、祟りだと嘲笑うこともなく、冷徹にその死を記しています。

兼実にとって打撃だったのは、同年12月、皇嘉門院聖子が崩御したことでした。

異母姉である彼女は猶子とした兼実を何かと気にかけていました。

母であり姉であるような存在、その喪失は痛恨の極みでした。

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