文治二年(1186年)6月16日は、源有綱(ありつな)が亡くなったとされている日です。
この時代の源氏ということで、もちろん源平の戦いにも関わっていますが、どうにもピンとこない名前ですよね。
というのも、有綱は源氏は源氏でも、頼朝や義経とはとても遠い親戚だからです。
祖は頼朝と同じ清和源氏 源有綱は摂津源氏の流れ
遡れば清和源氏であることは同じです。

清和源氏の祖である清和天皇/wikipediaより引用
しかし、有綱の6代前のご先祖様が、頼朝たちに続く河内源氏の血筋と枝分かれしています。
有綱のほうは「摂津源氏」という系統でした。
同じタイミングで分化していった「大和源氏」という系統もあります。
大和源氏も有綱の時代までは続いていたのですが、その後さらに枝分かれしていき、源姓ではなくなっています。
ちなみにそれぞれの祖を生まれ順で見ていくと、
摂津源氏の初代・源頼光
大和源氏の初代・源頼親
河内源氏の初代・源頼信
※父は源満仲
となります。
そろそろ「源氏」の二文字がゲシュタルト崩壊しそうですので、有綱の話に進みましょう。
義経とは対等のポジションだった
源有綱の少年時代のことは、あまりよくわかっていません。
反平家の嚆矢となった以仁王の挙兵の際に、有綱の祖父と父が敗死してしまい、有綱も伊豆に隠遁せざるを得なかったといわれています。
隠遁先は上野国(現・栃木県)だったという説もあるようで、なんだかんだで挙兵した源頼朝の麾下に入り、共通の敵である平家討伐に力を尽くすことになりました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
有綱は頼朝の命で、寿永元年(1182年)から土佐方面の攻略を担当しています。
このあたりに、頼朝の同母弟・源希義(まれよし)の仇である平家方の武士がいたからです。
土佐出身の夜須行宗(やす ゆきむね)を案内役として、有綱は見事目的を果たします。
頼朝からすれば、その実力を確かめるという目的もあったかもしれません。
義経の戦果が華々しく伝説的なために目立ちませんが、有綱もいい仕事をしていた、という感じでしょうか。
頼朝からの評価も悪くはなく、義経の下で動くよう命じられています。

源義経/wikipediaより引用
義経よりは常識的だったでしょうし、もしかしたらお目付け役というか重石というか、そんな類の期待をされたのかもしれません。
この2人は年齢層や官位など共通点が多く、上下関係というよりは対等だったとされているので、目付役としてはあまりアテにならなかったかもしれませんが。
義経は「奥州時代から付き従ってきた忠臣・佐藤兄弟の妹と娘をもうけており、その娘が有綱に嫁いだ」ともいわれています。義経の年齢からして、養女の可能性も高そうですが……。
もしくは、有綱と義経が良い関係を築いていたからこそ、後からそういった理由付けがされた、という可能性もありそうですね。
義経が目立ちすぎて歴史の狭間に埋もれてしまった!?
平家討伐の本番の頃に、源有綱が何をしていたのか? よく、わかっていません。
義経が目立ち過ぎというか、その義経の配下だったから目立たなくなってしまったというか。
どうせなら義経と梶原景時(壇ノ浦の戦い)の大人げないケンカのとき、有綱が仲裁に入ってくれれば、それなりに名前が知られていたと思うのですが。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
平家討伐が終わった後、義経が頼朝と険悪な仲になってからも、有綱は義経に従っていたようです。
その後、義経と別れると、有綱も追われる身分となって、大和国宇陀郡(現・奈良県宇陀郡)に潜伏。
文治二年の今日この日、義経方の残党を捜索していた北条時定の手勢に発見され、抵抗の末に山深くに入って自害したといいます。
ただし、潜伏先は下野国塩原(現・栃木県那須塩原市)だったという説も一部ではよく知られています。
中塩原温泉に「有綱と家臣たちが潜んでいた」とされる鍾乳洞があるのです。
「源三窟」と呼ばれ、以下の画像がその入口(入洞口)。

源三窟の入洞口/wikipediaより引用
米のとぎ汁が川を流れ 鎌倉の追手に見つかって
「源三窟」には源有綱たちの伝説が残っております。
有綱と家臣たちは近隣の村から米や野菜を恵んでもらいながら、再起を夢見て隠れ住んでいた。
しかし、ある日、米のとぎ汁を川に流したところ、鎌倉の追っ手に見つかって討たれてしまった
この辺の川は割と幅も勢いもありますから、米のとぎ汁を流したところで、大して目立たない気がするのですが……当時はもっと小さな川だったんですかね。
もしくは、流した地点のすぐそばで見かけた、とか?
数年前にワタクシここに行ったのですけれども、内部の写真を撮っていいか入り口で聞き忘れたせいで撮り損ねましたスミマセン。
潜伏するのに相応しく、かなり狭いので三脚などはおそらく立てられないと思われます。
もし撮影おkといわれても、スマホや小型のカメラが精一杯でしょう。こういうところを保存するのは大変ですから、もしこれから行かれる方はお気をつけください。

源三窟HPより引用(→link)
どのくらい狭いかというと、身長159cmの私でもかがまないと通れないところがあるくらいです。大柄な人だとそもそも入れないかもしれません。
それでなくても鍾乳洞=足元に水気が多い場所ですので、あらゆる意味で注意が必要な場所です。夏に行くと涼しくていいんですけどね。
また、すぐ横の武具資料館では、源三窟から見つかったとされる甲冑類などが展示されています。
悪霊が憑いているといういわくつきのものもあるので、苦手な人はご注意を。
実は、塩原から40km弱ほどの位置にある湯西川温泉にも、平家の落人が逃げ込んだという伝承があります。
真実であれば「滅んだ側と滅ぼした側の両方がごく近隣に潜んでいた」ことになりますね。偶然ってスゴイ。
もし何かのきっかけがあって、有綱と平家の落人たちが合流して鎌倉に立ち向かうとか、地元の有力者である宇都宮氏と組むとか、協力して義経や奥州藤原氏の元を目指したりしたら、面白い流れになっていたかもしれません。
そういう歴史IF小説でもあれば、ぜひ読んでみたいものです。
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【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝』(→amazon)
源有綱/wikipedia
源三窟HP(→link)





