監修は東京大学の本郷和人先生と本村凌二先生。
そんな豪華な人選によりサンクチュアリ出版から発売された新刊があります。
『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』(→amazon)です。
戦略で図鑑とは一体なんなのか?
中身は日本史16本と世界史14本の有名な戦いで構成されており、百聞は一見に如かずということで、本書から一本の記事をお借りしてきました!
1336年4月13日(建武3年3月2日)に筑前国(現在の福岡県)で勃発した【多々良浜の戦い】です。
戦いの主役は足利尊氏であり、京都・室町幕府の初代将軍となる尊氏がなぜ九州にいたのか? この戦いにはどんな意義があったのか?
史実の振り返りに加えて、本書のリードで記されているような「戦略」の視点にもメスを入れて考察。
まずは以下の本文にて、多々良浜の戦いをご堪能ください!
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1336年多々良浜の戦い
舞台は鎌倉幕府の末期。
間もなく南北朝と呼ばれる時代に突入する時代です。
その後生まれる室町幕府の初代将軍となる足利尊氏ですが、幕府を開くまでの道のりは簡単なものではありませんでした。
その紆余曲折のドラマを見ていきましょう。
幕府を倒した元・家臣
鎌倉幕府が倒れ、次に生まれた室町幕府。その初代将軍となったのが足利尊氏です。
尊氏は「鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ人物」として教科書などでも紹介されますが、彼は初めから鎌倉幕府の敵だったわけではありません。
むしろ、鎌倉幕府側の執権・北条氏に仕える優秀な家臣だったのです。
今で言う「高級官僚」的な立場であった尊氏が、なぜ幕府を滅ぼす側に回ったのか?
それは、幕府が遅かれ早かれ滅びるだろうという予感があったからでしょう。
鎌倉幕府は源氏から北条家へとリーダーが変わり、承久の乱で天皇に勝利すると、天皇家は衰退し、両者の関係は幕府が優位になりました。
幕府は皇位継承にも口を出せる力を持っていたため、幕府の介入によって自身の子孫への皇位継承が失敗することに不安を抱いた後醍醐天皇は倒幕を決意します。
二度倒幕に失敗しますが、諦めず鎌倉幕府を倒そうと全国に呼びかけました。
再び幕府の大きな危機。
このとき尊氏は幕府の命令で後醍醐天皇討伐へ向かったはずが、なんと幕府を裏切って後醍醐天皇側についたのです。
尊氏に言わせれば「このまま幕府に従ってたらオレも滅ぼされちまう! 天皇に逆らい続けることができるわけないだろう!」という思いだったのでしょう。
尊氏という主戦力が抜けたことで、幕府はあっさり倒れてしまいます。
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