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【伏見天皇と「浅原事件」】
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「伏見天皇はドコにいる!?」
武装した男たちが御所に押し入り、天皇の寝室がどこか女官に尋ねました。
普通、暗殺って、そういうことを下調べしてからやるものだと思うんですが(´・ω・`)
この通り実行犯がマヌケだったおかげで、伏見天皇は助かりました。
寝室の場所を聞かれた女官が機転を利かせ、全く違う場所を教えて撹乱している間に急いで伏見天皇へ言上し、事なきを得たのです。
この事件を「浅原事件」と呼びます。
もし一歩間違っていたら、伏見天皇は「暗殺された天皇」として有名になっていたかもしれません。
また、対外関係においても重大な悪影響を及ぼすところでした。
浅原事件が起きたのは、正応三年(1290年)です。
モンゴルに攻めこまれた「文永および弘安の役=元寇」が終わってから、そんなに年数が経っていないということになります。
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そんな時期に天皇が暗殺され、皇室が二つに割れ、幕府や武士がそれぞれに味方して内乱状態にでもなっていたら、「内乱やってるなら今度こそ勝てるだろ」とばかりに、三たび元が攻めてくるかもしれません。
怖い話ですね。
だいぶ話がそれてしまいました。伏見天皇に戻りましょう。
暗殺された天皇は記録上ただ一人・崇峻天皇
危機を脱した伏見天皇は、当然のことながら背後関係を調べさせました。
下手人は暗殺失敗の後、警護の武士に見つかって自害したのですが、そのとき用いた刀が公家の三条実盛のものだったことがわかります。
この人が大覚寺統派だったことから「背後に大覚寺統が絡んでいるのでは?」と思われました。
しかし、亀山法皇が「私は神に誓って関係ありません」という起請文(神仏に誓いを立てて身の潔白を証明しようとする文書)を出したこと、伏見天皇の後見(実権者)である父の後深草法皇が事を荒立てようとしなかったことで、それ以上の詮索はされずに終わります。
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