鎌倉大仏

源平・鎌倉・室町

鎌倉大仏は誰が何のために作ったのか? なぜ外に座っているのか?

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誰がなぜ作ったのか?

鎌倉大仏は誰が何のために作ったか――残念ながら、これがはっきりとしておらず、諸説あります。

宋銭と成分が近く、財力がなければ作れない。

浄光という僧侶が勧進して歩いたことはわかっているものの、浄光そのものの事績が不明瞭。

河内から丹波久友はじめ技術をもつ鋳物師も招かねばならない。

そうなると権力者の援助は必須であり、北条泰時が建立を援助した可能性は否定できないでしょう。

前述の通り、北条泰時は開眼の前年、仁治3年(1242年)に亡くなっており、完成を見ることはできませんでしたが、大仏による平和祈願は、泰時以降の北条氏が掲げた「撫民政治」の考え方に沿っています。

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北条氏は紆余曲折を経て、執権として幕府の頂点に立ちました。

正統性は薄く、名門の血筋でもない。

そんな彼らが統治倫理として掲げたのが「撫民」だったのです。

泰時の孫であり、彼に育てられた5代執権・北条時頼も「撫民」を掲げて統治を行ない、特色としました。

北条氏による政権簒奪の過程は血生臭く、尊王思想において【承久の乱】は不敬の極みとされましたが、それでも後世の人々はこう考えています。

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「北条泰時は、上皇と天皇を流刑にするという極悪非道の行いがある。だが、政治はよい。これはなぜか?」

彼が評価された要因として、撫民のシンボル・鎌倉大仏も役立ったのではないでしょうか。

以降、大仏が常時そびえ立つ時代となると、北条の統治が鎌倉から全国へ広まります。

そんな時代の象徴が、北条時頼でした。

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北条の治世 鎌倉から広がる

禅宗に帰依し、統治者として民を慈しむ。

武士は戦う存在から、統治者へと変わってゆく。

その変貌のシンボルとして鎌倉大仏は最適でした。

五代執権・北条時頼は、南宋の僧侶である蘭渓道隆を鎌倉に招き、徳の高い統治をめざしました。

そんなとき役立ったのが大仏。信心と撫民の象徴になりました。

北条泰時が制定した【御成敗式目】についても、ちょうど全国へ浸透してゆき、民衆の間でも北条という統治者の像が徐々に広がりを見せている頃。

撫民を掲げた時頼は、伝説の為政者としての像が伝わってゆきます。

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それが顕れた古典文学を見てみましょう。謡曲『鉢の木』に登場する時頼です。

『鉢の木』とは?

ある大雪の夜のこと。

上野国佐野荘のみすぼらしい家に、旅の僧侶が宿を求めてきました。

主人がいないからと婦人が断ろうとすると、そこへ主人が帰ってきて、僧侶を呼び戻して囲炉裏の火をつけます。

薪が尽きると、鉢植えの梅、松、桜の枝まで燃やしました。

なんという心がけなのか――僧が名を訪ねました。

「それがしは佐野荘の領主であった佐野源左衛門尉常世と申すもの。ゆえあって一族の者に土地を奪われて今は落ちぶれておりますが、いざとなれば鎌倉に馳せ参じ、忠義を尽くす所存」

なんという武士か。僧は感動して宿を去ります。

その後、鎌倉が武士に動員を掛けました。

「いざ、鎌倉!」

するとあの常世が錆びた武器とぼろぼろの具足を身につけ、痩せた馬に跨ってやってきた。

あまりにみすぼらしい姿を見て、みなが嘲笑っていると、常世が呼び出されます。

何事か?と恐れながらも近づくと、あのときの僧侶が目の前にいるではありませんか。

正体は執権・北条時頼――。

「よく馳せ参じた。あの晩、申した通りじゃのう。所領を安堵するがよいぞ」

そう告げると、あの晩に切った梅、松、桜の名のつく所領までも与えました。

なるほど、よい話ではありますが、疑問は湧きませんか?

時頼は一体何をしているのか?

実は彼、時代劇『水戸黄門』のように廻国伝説の先駆者なのです。

『鉢の木』は美談ですが、時頼に不埒な振る舞いをして逆襲される伝説もあります。

一方で、伝説ではない逸話が『徒然草』百二十五段に残されていて、こちらもよく知られており、以下にまとめておきましょう。

ある夜、大仏宣時の元に北条時頼からの使者が来て、すぐ来るようにと言われました。

しかしもう夜のこと。

直垂(現代人にとってのスーツのようなもの)もないし、こんな格好で上司に会えない! そう慌てていると、また使者が来ました。

「もう夜だし、服装なんかどうでもいいから、すぐ来いと言ってますよ」

うーん、そんなこと言われても……一体どういう状況なんだ。

訝しみながら宣時が駆けつけると、時頼が銚子と土器を手にしておりました。

「よっ、一人で酒飲むのもなんだし呼び出しちゃったんだけど、ツマミもないけどいいかな? なんかつまめるものないか、台所見てきてくれる?」

そう言われて宣時が探し回ると、土器に味噌が残っていました。

「こんなもんしかねえスけど」

「お、これでいいんじゃね」

時頼はそう言い、二人で飲んだそうです。そんないい時代もあったよね。

兼好法師はノスタルジックになりながら、質素倹約ぶりを褒め称えています。

時頼の質素倹約伝説は、その母・松下禅尼の逸話と共に残されましたが、そこに芽生えていたのが【武士道】です。

犬や物乞いを射殺して訓練する野蛮さとか、難しい文章が読めないとか――マイナス面のことではなく、武士のよいところが都でも好意的に語られていた。

ここで出てくる宣時は「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む大仏流北条氏の人物です。

大仏のある「おさらぎ」という地名から取られていて、時頼の時代には、大仏こそ鎌倉のシンボルになっていたこともわかります。

 

質素倹約と撫民

東大寺大仏のように、焼け落ちることもなく座り続けた鎌倉大仏。

この鎌倉のシンボルが建てられた時代、北条氏においては時頼が執権を務めて得宗体制も進み、その名声や逸話が広まりました。

幕府に集まる富。

信仰心。

南宋の技術。

河内からやってきた鋳物師。

京都ではなく、鎌倉に権力があればこそ最新の技術や文化が集結したのです。

しかも、大仏に見守られながら展開された北条氏の政治は「質素倹約と撫民」という、前時代には無い、新たな美徳を兼ね備えたものでした。

誰が何のために大仏を作ったのか?

この答えは未だに明確ではありませんが、より良い世の中を望んだ泰時や時頼の思いが反映されたのは間違いないでしょう。

だからでしょうか。

鎌倉大仏というと、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、運慶の仏像を見た北条義時が「妻・八重の眼差しに似ている」と目を細めていたシーンも思い出してしまう。

慈愛の象徴は今も高徳院で会うことができます。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
馬渕和雄『鎌倉大仏の中世史』(→amazon
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon

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